『セミナー』

 京都にあまり興味はなかった。自分のもっている京都の知識といえば八橋、清水寺、金閣寺といったメジャーなものしか知らない。普通はそうだろう。地元ならいざ知らず、歴史の苦手な若者が好き好んで昔の歴史を学んだりするだろうか。今時の若者ならば嵐山で散策する程度で十分なのだ。しかし、涼子は受け入れてくれなかった。セミナーを前日に控えた今、九条は部室で古都の素晴らしさを延々と涼子に語られている。それはまるで歴史の授業を受けているかのようだ。
「いい? 京都は素晴らしい町なんだよ。文学や小説にもたくさん取り入れられてる。紫式部の書いた源氏物語や清少納言の枕草子だってそう。芥川龍之介の羅生門、与謝野晶子のみだれ髪、司馬遼太郎の燃えよ剣にも舞台として登場するんだよ。何でかわかる?」
「・・・素晴らしい町だからですか?」
「そう!」
 涼子は力説して言った。「京都は素晴らしい魅力に溢れてる。それなのに、そういった魅力を見ずにセミナーを終えていいの?」
「いいですよ」
「うん、駄目だよね。じゃあ自由時間はできる限りそういった場所を廻らないとね!」
 都合の悪いことは聞こえないらしい。もう何を言っても無駄だと理解した。「時間は待ってはくれないんだから」
 九条は苦笑した。顔で笑って心で泣いて、という気分だ。不意に、涼子が手がけている油絵が視界に入った。
「涼子さん、これ次のコンクールに出す予定の絵ですよね? まだ下書きですけど、何の絵ですか?」
 九条はキャンバスの前に立ってその下書きを覗き込んだ。まだ木炭で軽く形をとったような状態で止まっている。
「う〜ん、まだ内緒」
 涼子も九条につられて立ち上がった。「でもいいのができるよ。わかるんだ」
 そんなものなのだろうか。素人には構想だけで「いい絵ができる」とは予感できそうにない。それは技術がついていかないからなのだろう。しかし彼女は発想も構想も、そして技術ももち合わせている。天才とはよく言ったものだ。
「もしこの絵が完成したら・・・九条君にあげるね」
「え?」
 涼子は座り込み、荷物を片付けながら言った。
「もらってくれる?」
 一体彼女がどういう意味で言っているのかよくわからなかった。彼女の絵は、世間的に評価が高い。もし値段をつけるとすると・・・、いや、芸術に金銭は関係ないというが、やはり素人は価値というものを先に考えてしまう。しかし彼女の絵は見ているだけで感動させられるのも確かだ。くれるというのなら、ここは素直にもらっておくべきだろう。
「ええ、涼子さんがいいのなら。ありがたくもらいますよ」
 その言葉を聞き、涼子は背中を向けて「よかった」とだけ呟いた。

 ついにセミナーの日がやってきた。給料日もやってきたから軍資金も十分だ。今岡から給料明細を受け取ったときは互いに驚いたが・・・。
月の給料で32万。これはコンビニの正社員よりもずっと高い。今岡の場合は正社員で月額で決められている。なのでどれだけ働いても月の給料が増えることはない。どれだけ残業しても20万程度だ。しかも保険等で引かれ、実際に手元にくるお金は更に少なくなるのだろう。
 九条は家賃を払い、必要な金額だけを引きおろしておいた。この調子だと、すぐに車も買えてしまいそうだ。もちろん、しっかりと貯蓄しなければならない。半年後には再び授業料を振り込まなければいけないのだ。全く、苦学生はつらい。
 朝食を済ませ、荷物を持って家を出た。やけに晴れ晴れとした気分だ。涼子の強制神社仏閣ツアーというのは落ち込むが、この快晴とした天気も正に旅行日和である。九条は時計を見た。現在は7時半。出発は9時だから余裕で間に合う。途中、登校中の小学生の分団や中学生とすれ違った。たまにコンビニの常連客などもいて、京都へ旅行に行くと伝えると口々に「お土産期待してるね」と揃って言う。その地区はほとんどが顔見知りとなってしまっているので、本当に土産を買うとなると30人分は軽く超えてしまう。
 それにしても京都か・・・。始めは全く興味なかったが、次第に楽しみになってきた。涼子に洗脳されてしまったのだろうか。
 大学へ到着するとまだ生徒は数えるほどしか来ていなかった。やはり早すぎたのだろう。まだ時間まで一時間ほどある。九条は自販機で眠気覚ましにコーヒーを買った。昨夜はセミナーの準備のため夜勤は外してもらったが、習慣というものは恐ろしい。12時には寝床に入ったのだが全く眠れなかった。普段ならばまだ働いている時間なので、身体がそういうリズムを覚えてしまったのだろう。結局眠れたのは朝方で、夜勤を外してもらった意味がなくなってしまった。
「これなら働いて給料もらった方がよかったな」
 それにしても、最近はコーヒーを飲む頻度が増えてきている。夜勤中などの眠気覚ましによく愛飲しているのだがそろそろ副作用が出てきそうだ。コーヒーに含まれているカフェインには、確かに覚醒作用、脳細動脈収縮作用があり頭がはっきりとしてくる。医学にも、それを取り入れているようだ。しかし副作用として不眠や目眩が現れる。高い頻度で常用していると、副作用も強くなってくる。そういった人がカフェインをとらなくなると、頭痛、疲労感、集中力の欠如、抑うつなどが現れるという。一種の麻薬のように感じてしまう。カフェイン中毒者になると筋肉の震えやパニック障害を引き起こすというから恐い。
 九条は自分の手を見た。僅かだが、軽く震えているように見える。カフェイン中毒の一歩手前といったところか、もしくはただの仕事の疲れか。後者であってほしいところだ。
「九条・・・君だったかな?」
 いきなり見知らぬ男が隣に座ってきた。
 男は茶髪で、身長は九条より少し低めに見えるが体格はガッシリとして自分より大きく見える。しかし、何者だろうか。記憶の中を模索するも、結局答えは出なかった。
「えっと・・・」
 九条が対応に困っているのに気付いたのか、男は慌てて言葉を紡いだ。
「ああ、ごめんごめん。初対面だよ。君のことは話で知っているだけさ」
「話で?」
「ああ。美術サークルのマスコットの保護者。君のことだろ? 結構有名だぜ?」
 いつの間にそんな位置づけにされたのかわからないが、あながち間違っていないような気がしてきた。
「それで・・・あなたは?」
「あなたなんてやめてくれよ。これでも九条君と同い年なんだ。斉藤隆志(たかし)。隆志って呼んでくれよ」
「それじゃ、オレも瞬でいいですよ」
 二人は互いに笑った。今知り合ったばかりというのに、すでに気を許しあえるような仲になっていた。
「本当、想像通りの人だ。ちょっと九条君・・・いや瞬が一人で寂しくしてたからちょっと声をかけてみたんだ」
「オレ、寂しそうだった?」
「ああ。何か哀愁漂わせてたぜ。娘がいなくて寂しいのか?」
「おい、隆志。あの人はあれでも先輩だよ」
「あはは。『あれでも』・・・ね」
 いつか涼子が言った言葉を思い出した。「このセミナーでたくさんの友達をつくらないとね」という言葉。隆志がその第一号となった。ハードなバイト生活で忘れてしまいがちになるが、自分はまだ大学生。こういった青春も謳歌できるのだ。仕事ばかり考えて苦労していると早く老けてしまいそうだ。
「瞬、あれマスコットじゃないか?」
 隆志にそう言われ、隆志の指の先を見るとそこには確かに涼子がいた。小さな身体に不釣合いな大きな荷物を手に抱えている。
「全く、あの人は」
 九条はため息をついて立ち上がった。「あんな大きな荷物じゃうまく歩けないだろう。ほら、あんなにフラフラして・・・」
「行くのか?」
「ああ。オレの経験からすると、あれじゃそのうち転ぶからな」
「はは、さすが保護者」
 隆志は感心したのか、それとも呆れたのかわからないが笑って言った。。「わかった、行ってこいよ。それじゃ、またな」
「ああ」
 九条が再び涼子を見ると、涼子は案の定豪快に転んでいた。

『セミナー』 完  


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