『自分が捨てたもの・・・A』


 これは悪い夢に違いない。
ボクが今一番会いたくない人。それが今自分の目の前にいる。
佐伯和也は眠そうな瞳でこちらを向いていた。そんな彼の姿を見て、自分はこの場から逃げ出したい気持ちで一杯だった・・・。

 時間が凍りついたかのように思えた。自分も佐伯も動かない。だがその場にいたあの人物だけは例外だった。ボクの横を勢いよく通り過ぎ、その勢いのまま一直線に佐伯に駆けていく影があった。それは・・・言わずもがな、我が姉、久美だった。

「お久しぶりですーーー!!」

 言葉が早いか、それとも体当たりが早かったのか分からないが、佐伯は訳も分からず姉の体当たりを喰らって3メートル程吹き飛んだ。あれほど綺麗に人は宙を舞うことができるのかと思えるほど、佐伯は2回転して飛んでいる。その光景に一瞬見惚れてしまったが、ボクはすぐに我に返ってその後に待っているであろう光景から逃れようと目蓋を閉じた。
 そしてその直後、ドンという鈍い音がした。少ししてゆっくりと目蓋を開くと、佐伯は案の定、受身もとれずに背中を押さえてもがいている。それを見て、姉が慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか? 一体誰がこんなことを・・・」
 ・・・お前だお前。
「大丈夫。すぐに私が介抱してあげますからね」
 姉はそう言って手提げカバンに入っていた包帯を取り出した。医務室に連れて行った方が手っ取り早いのではないかと思ったが、姉はそんな自分の考えなどお構いなしに処置に取り掛かる。
「それじゃ・・・まずは服を脱がせますね」
「! ・・・! ・・・!!」
 佐伯は口をパクパクとさせて何か伝えようとしているが、背中を強打したため声にならないらしい。恐らく『やめてくれ』という言葉が可能性としては高いのだろうが、姉を止める勇気はない。勇気もなければ、姉の傍若無人な振る舞いを止める力もないのだ。時折佐伯の子犬のような助けを求めている視線も感じたが、ボクは無関係を装って眼を逸らしていた。

 姉は佐伯の服を無理矢理剥ぎ取り、佐伯の背中を凝視している。逃げ出そうとしている佐伯の肩をしっかりと押さえ、嬉しそうにしている姉の顔は少々危険な光景に見えた。まさかこれ以上無茶はしないだろうが、それが姉だけに自信がない。ひょっとすると本当に襲いかねないかもしれない。事件沙汰になるのを恐れて、ボクは姉に声をかけた。
「・・・ね、姉さん。傷はどんな感じ・・・?」
「え、傷?」
「うん。背中を強く打ったから、その痕を診てるんだろ?」
「あ、そうね。そうだったわね」
 これは本格的に危なかったな・・・。ボクが声をかけていなかったら、佐伯はどんな目に遭っていたのだろうか・・・。
姉は佐伯の背中を擦る。それがくすぐったいのか、佐伯は体を小さく振るわせた。それを見て、姉は嬉しそうに再び背中を擦る。
「佐伯様って綺麗な肌してるんですね」
「姉さん、傷はどうした」
「傷は大したことないわ。打ち身にもなってないし・・・」
「それじゃ、早く服を着させてあげなよ」
「え・・・」
 ・・・姉は「勿体無い」とで言いたげな表情を向けている。すると何かを思いついたのか、佐伯を逃さないように片手は掴んだままの状態で、もう片方の手でカバンからサイフを取り出した。
「勇次、お小遣いあげるから何か好きなものでも買ってきなさい」
「・・・何で?」
「優しい姉の心配りよ。ほら、100円あげるから」
「安いよ! ・・・っていうか姉さんボクをこの場から追い出して、佐伯・・・さんを襲う気だろ」
「ま、まさか・・・私がそんなはしたないことする女に見える? ね、佐伯様、見えますか?」
 姉は佐伯に問いかける。佐伯は首を縦に何度も振っているが、姉はそれを見て頓珍漢なことを言い出した。「ほら見なさい。佐伯様は優しい人に見えるって肯いてるじゃない」
「・・・ち、違う」
 佐伯はそこでようやく声を出すことができた。佐伯自身それに気づいて、何回か発声練習をしてから姉に視線を向けた。
「き・・・君誰さ。急に体当たりして、何の用?」
 佐伯は警戒心一杯だ。姉に腕を掴まれているものの、すぐにでも逃げ出す姿勢をつくっていた。・・・まぁ、それだけ怖がるのも無理はないが・・・。
「あ、私『岸岡 久美』です。一度交流会でお会いしたんですが、覚えていませんか?」
「・・・覚えてない」
「え、ちゃんとその時自己紹介しましたけど・・・」
「・・・覚えてない」
 佐伯は人の顔を覚えるのが余程苦手なのか、それとも姉の記憶に間違いがあるのか分からないが、姉はこれ以上ない程落ち込んで肩を落とした。しかし肩を落としても佐伯を掴む腕の力は抜かない。
「それじゃ・・・もう一度自己紹介します。私、佐伯様のファンなんです」
「・・・ファン? ・・・ファンってあのクルクル回るやつのことじゃなくて?」
 ・・・一瞬佐伯の周辺でクルクル回る姉を想像してしまい、ボクは噴出しそうになって口元を押さえた。佐伯の思考はなかなかユーモアなものがあるが、それは姉には通用しないらしい。
「違います。佐伯様の絵を見て、感動したんです。特にあの絵、『この空の下で』というタイトルでしたね。あの絵を見て切なさを感じたんです。でもそれだけじゃなくて、何か心が温まる感じもあって・・・」
「・・・そ・・・そう」
「佐伯様ってすごく素晴らしい絵を描かれるんですね。私本当に感動しました」
「とにかく・・・君がその・・・ボクのファンってことは分かったから、そろそろ手を離してくれないかな?」
 こうして会話している最中も、佐伯の腕から姉の手が離れることはなかった。佐伯も何度か振りほどこうとしているようだが、姉の力には通用していないらしい。
「あ、ごめんなさい」
 姉は慌てて謝る。
 しかし手は離さない。
「・・・姉さん。勿体無いなんて考えてないだろうね?」
「ま、まさか!」
 姉はそこでようやく手を離した。自由を手にすることができた佐伯はすぐに脱がされた自分の服を手に取り、着終えた。そしてすぐに立ち上がる。
「・・・ふぅ・・・」
「あの、佐伯様?」
「・・・様?」
 佐伯は今それに気づいたらしい。しかし姉は「ファンなので」と言うだけだった。ファン全員が全員「様」付けする訳ではないし、そちらの方が少人数であるに違いない。困った顔を浮かべる佐伯に、ボクは「何を言っても無駄ですよ」と伝えた。


 その時、部屋の扉が開いた。
皆一斉にそちらを振り向くと、そこには学生数人が立っていた。その中には先ほど美術展で見かけた受付嬢の姿もある。
「あ、佐伯部長!!」
 その中の1人が佐伯を指差して叫んだ。佐伯の方を窺うと、彼は困った表情を浮かべている。
「・・・しまった、追っ手が来たか」
 どうやら美術部員が彼を連れ戻そうと捜索を始めたらしい。そこにいる美術部員は6人。出口は彼らの背後にしかなく、佐伯にとっては絶体絶命の状況だろう。それを察知するや否や、佐伯は姉に声をかけた。
「君・・・えっと・・・岸岡さんだっけ? 逃げ出すのを手伝ってくれないかな?」
「はい。佐伯様の頼みなら、何でも聞いちゃいますよ」
 姉は巧く佐伯に使われてしまっている。「それじゃ、私が突破口を開きますね」
 姉が美術部員に突入しようとしたその瞬間、部員の中の誰かが叫んだ。
「君たち、部長を捕まえてください! 学際が終わったら部長を好きにしていいですから!!」





 ・・・結局、全てを制したのは姉の本性を図らずも促した美術部員の言葉であった。
部員に突入しようとしていた姉はその言葉を聞き、180度転回して逃げようとしていた佐伯に有無を言わせず抱きついた。抱きつけるし、学際後に好きにできる。それは正に姉にとっては一石二鳥の選択だった。土壇場で裏切られた佐伯は成す術なく、その後部員に連行されて行った。
 ボクたちは部員たちに「お礼」ということでお茶菓子を出された。場所は美術展ではなく、その裏に位置する云わば部員用の休憩室といったところだろう。
「ありがとう。あなたたちのおかげで部長を美術展に顔出しさせることができたわ」
 女部員がジュースを紙コップに注ぎ、それをボクと姉の前に差し出してくれた。
「いえいえ。お力になることができて私も満足です」
「本当、助かったわ。今頃は椅子にロープで括り付けれらて、OBや画家の人たちに声をかけられているはずよ」
 美術展でロープで括り付けられてしまっている光景は異様だと思うが、こうしていると佐伯の人望の無さがはっきりと分かる。部長という職にありながら、部員たちに全く尊敬されていない。仮にもコンクールで様々な賞を受賞している人物が、それはどうなのかとも思うが・・・。
「先程美術展を拝見させてもらいました。噂どおり、ここの美術サークルのレベルは高いですね。私はここの姉妹校へ通っているんですが、評判をよく耳にしてました」
「姉妹校っていうと・・・ああ、あの学校ね」
「ええ。それで佐伯さんの絵も本校へ寄贈してもらうこともあり、私のところの学校には結構なファンがいるんですよ」
「でも本性を知ったらきっと幻滅するわ」
「そんなことありませんよ」
 姉は即答した。「母性本能をくすぐるタイプみたいでいいと思います」
「えっと・・・確かに部長は子どもみたいなところもあるわね」
 そんな姉たちの会話を聞きながら、ボクはジュースを飲み干して立ち上がった。
「姉さん、ボクはそろそろ行くよ。その辺りを適当にうろついているから、帰るときは携帯に連絡してくれ」
「え・・・ちょっと勇次?」
 ボクは姉が引きとめようとする言葉を聞かず、部屋を出た。そしてすぐに隣に位置している美術展を抜け、外に出る。それはまるで、何かから逃げるように飛び出したんだ・・・。




 どれくらいの時間歩いただろうか。
何の目的もなく歩いていた自分は、気がつくと周りに全く人気のない場所に来てしまっていた。
・・・自分は迷っている。
今の現状のことではなく、『絵』に対して迷いを抱いてしまっているのだ。佐伯の絵を見て自分の絵の凡庸さを思い知らされ、才能の違いというものに打ちのめされてしまった。それ以来、極力『絵』に対しては関わらないようにしていた。なぜなら、それに触れてしまうと再び惨めさを実感してしまいそうだったからだ。そして自分の予想通り、今胸の奥には言い表せないような感情が渦巻いている。
「・・・絵なんて・・・どうでもいいのに・・・」
 それはとても幼稚なものなんだ。絵画なんてものは、子どものお絵かきをスケールアップした程度のものであって、ただの遊びに過ぎないんだ。
 ・・・そう思っていたのに・・・。
 ふと顔を上げると、そこには大きな額に入った絵が飾られていた。ここは来賓用の正面入り口らしく、訪ねてきた彼らを出迎えるようにそこに絵が飾られていた。そこには絵が2枚置かれている。1枚は油絵、もう1枚は水彩画。その絵の完成度は、自分が眼を逸らしたくなる程の完成度だった。この絵を見てしまうと、心が痛んでしまうと思ったからだ。しかし・・・目を逸らすことができなかった。自分の眼に飛び込んできた絵は、まさに至高の芸術品と呼ぶに相応しいソレであった。
 油絵の1枚はその材質を十二分に発揮しており、立体的な風景画を表現している。その巨大で立体感のある絵は、まるで目の前がその風景に続いているかのように錯覚させる。このまま前に進めば、自然溢れる緑の森林。清流のせせらぎや、野鳥の囀(さえず)りさえ聞こえてくるような気がした。そうした大自然を感じると、自分の心が癒されていくのを実感した。まさかキャンバスと絵の具だけでマイナスイオンを発生させている訳はないだろうが、この大自然の絵はそれを感じさせる程の絵画だった。
 もう1枚の水彩画は、淡い色の重ね塗りが印象的な絵だった。それは風景画や人物画とは異なり、抽象画に近い。一見すると何でもないような絵なのだが、全体を観察するとその奥深さに驚かされる。手前側はやや歪んだ景色が描かれているのに対し、奥へ行けば行くほど明るさが現れていく。その明るさはまるで、希望の光にさえ見える。その光の一番奥には、自分には判らない何かが描かれている。それが何なのか自分には答えが出なかったが、この絵を見て、自分は救われるのではないかと感じた。
 それらの絵の下に、それぞれのタイトルが記されてあった。

『心が求める場所へ  〜油絵  佐伯和也〜』

『黒が終わる時     〜水彩 水無月涼子〜』


 ・・・やっぱり、この人はすごい。何の僻(ひが)みもなく、そう思ってしまった。水彩を描いた水無月という人の名は初めて見るが、この人も佐伯に負けないような絵を描いている。世界にはこんなすごい才能をもった人たちがいるということを思い知った。

「・・・どうして・・・こんな絵が描けるんだろう・・・」
 ボクがそう呟いた瞬間、背後に誰かの気配を感じた。
「気持ちを込めて描けばいい」
「え・・・」
 ボクが振り返ると、そこにはこの絵を描いた佐伯が絵を見上げながら立っていた。
「絵を描くために、確かにある程度は技術が必要になる。配色や筆の乗せ方は勉強しないと、やっぱり難しいからね。でもやっぱり一番大事なのは、『何のためにこの絵を描くのか』だと思う。それをしっかり心に留めておかないと、中身の薄い絵になってしまうからね」
「・・・何のために・・・」
 ボクは突然現れた佐伯の姿に驚きもせず、彼が言った一言を反芻した。それを聞き、佐伯は肯いた。
「ボクも小さい頃は色んな問題から逃げて絵を描いてた口だ。だけどある時気づいたんだ。絵は人の心を素直に映し出してくれるんだ。絵は人の心・・・言葉では判らないことも、その人の絵を見ればその胸のうちを察することができる」
「・・・・・・」
「ボクの絵の隣に飾ってあるのは、この学校の姉妹校に通っている学生からの寄贈品なんだ。この学生の絵を見て、君は何か感じないかな?」
「・・・ボクの解釈が合ってるかは判りません」
「それはそうさ。人の解釈は十人十色、見る人の数だけ答えはある。それじゃ、君はどう思った?」
 佐伯にそう尋ねられ、ボクはもう1度水彩画を見上げた。この『黒が終わる時』という絵を見て、自分は『救い』を感じた。自分のこの迷いの渦から、救い出してくれるような印象を抱いたのだ。その印象を佐伯に伝えると、彼は微笑んで肯いた。
「なかなかいい感性をしてる。これは『救いの絵』だとボクも解釈してる。この学生も、何か苦しんでいることがあったんだろうね。この歪んだ色は、決して配色が下手だからこうなっているんじゃない。奥の淡い色のタッチを見ればそれがすぐ判る。この歪んだ色は悩み・苦しみを表現するために故意に出している。本当に苦しんでいたんだろう。だけど、この絵はそれだけの絵じゃない。なぜならその奥に、綺麗な世界が広がっているからね。きっとこの学生はその苦痛の中で、希望を見つけたんじゃないかな?」
 ・・・佐伯の言うとおりなのかもしれない。悩みや苦しみがあっても、いつかはそれが終わる。いつかは心穏やかな世界があるのだと、この絵はそう教えてくれているような気がした。それはまるで、今の自分を諭すように・・・。
「・・・何でそんな話をボクに?」
「君は・・・岸岡勇次クンだろう?」
「・・・え、ええ」
「やっぱりね。君のあのお姉さんが『岸岡』って名乗ってたし、君のこと『勇次』って呼んでたから判ったよ。君のことは前から気になってたんだ」
 ・・・前から? どういう意味だろう。ボクと佐伯は今日初めて会ったはずなのだ。佐伯がボクを知る機会なんて、思い当たらない。その言葉の意味を考えてしまっているボクに、佐伯は苦笑した。
「・・・あれは確か4年前だったかな。友人に引っ張られて中学生のコンクールを見学しに行ったんだ。そこで、入賞した君の作品を見たことがある。それを見てすぐに判ったんだ。・・・あぁ、ボクと一緒だ・・・って」
「・・・一緒・・・?」
「うん。君は絵を描いていた時、無理していたんじゃないかな? 君の絵からは余裕が感じられなかった。何か必死で色を乗せているような印象を受けたんだ」
 佐伯のその言葉を聞き、ボクは胸が痛んだ。確かに佐伯の言うとおり、無理して絵を描いていたと思う。何せ、自分にはそれしかなかったからだ。他の友人と違い、自分は運動も駄目だし勉強ができる訳でもない。かと言って人気者になれるほどのユーモアさもなければ会話も苦手だ。人に認められるにはそれしかなかったんだ・・・。だからこそ、佐伯の絵を見て思ってしまった。やっぱり、自分は人に認められるものを持っていないんだと・・・。
「・・・確かに・・・余裕がなかったかもしれません・・・」
「やっぱりそうか・・・。それならまず、評価は気にしないことだよ。元々『絵』なんてものは、個人が描きたいから描くものなんだ。賞といった評価は後からついてくるおまけに過ぎない。賞をとりたいから絵を描くんじゃないだ。自分が描きたいから、絵を描くんだ」


 ・・・今まで自分は絵を描くことに対して、楽しさを求めることなんてなかった。
いつも必死だったから。人に認められようと必死だったから・・・。
だけど・・・もうどうでもいい。佐伯の言葉を聞き、他人の評価よりも大切な何かを感じた気がしたから・・・。


『自分が捨てたもの・・・A』 完
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