『自分が捨てたもの・・・B』



 ・・・ボクは感動したんだ。
人に認めてもらうためだけの手段だった『絵』というものが、こんなにも素直に感じ取ることができた。佐伯の、そしてもう一人の学生の絵を見て、自分の「認めてもらいたい」という稚拙な意地なんてものは驚くほど薄れていた。彼らの絵を見て、きっと自分は楽になれたんだと思う。今まで無理していた自分の肩の荷が降りた、そんな気分だ。
 そして今自分が思っていることは、この救われたような感情を表現したいということだった。大学祭から帰宅し、ボクはすぐに部屋へ駆けた。そして抑えきれない衝動を胸に、長い時間取り出すことのなかった絵画道具を引っ張り出す。
「・・・ボクは・・・あの人たちみたいにはできないけど・・・」
 佐伯たちのような才能溢れる人種が描く絵には到達できないかもしれない。もしかしたら一生敵わないかもしれない。でも、それでも構わない。今自分が筆を手にしている理由は、人に認めてもらうためや、勝負事とは全く別のところにある。『ただ描きたい』・・・それだけだった。

 余程集中していたのか、ボクは姉が背後で様子を窺っているのを全く気づかずに作業に没頭していた。姉の存在に気づいたのは、絵が8割程完成した4時間後のことだった。筆を置いたボクに、姉が声をかけてきた。

「・・・勇次」
「わっ・・・!」
 ボクは驚いて後退する。「姉さん、いつ部屋に入ってきたんだよ」
「本当に気づいてなかったのね。あんたが絵を描き始めてからよ」
「・・・そんな前から・・・って今何時間経ったんだ?」
「4時間くらいね」
「姉さんはそれまでそこにいたの?」
 自分の没頭振りにも辟易するが、この姉の物好きさにも呆れてしまう。そんな長い時間眺めていて、果たして面白いものなのだろうか。しかし姉はそんなボクの疑問を聞こうともせず、ボクを押しのけてそこにある絵を覗き込んだ。
「・・・あんたが絵を描くなんて、すごい久しぶりじゃない?」
「・・・そうだな」
「まぁ、まだ佐伯様には到底敵わないけどね」
「ハハ・・・」
 ボクは苦笑してしまった。佐伯と比較されているのに、驚くほど苦痛に感じなかったのだ。それは自分がそんな感情を捨てて絵と向き合っているからかもしれない。
 姉はこちらを振り向き、ボクの頭を撫でた。
「・・・でも、前よりずっと良い絵になってる。姉さんは安心したよ」
「・・・姉さんがボクを褒めるなんて何か悪いものでも食べたのか? 大学祭で拾い食いでもしたんじゃないか?」
「勇次!」
「痛ぇ!」
 姉に掌底を頂いたボクは、蹲(うずくま)った。しかしまだ姉の攻撃は終わらないらしい。すかさずボクの腕をとり、固め技に入ってきた。ボクが「固められた」と理解したのは、姉の手によって身動き不能になってからであった・・・。
「・・・そっちの方が、余程姉さんらしいよ」
「あんた私のこと何だと思ってるのよ!」
 姉の怒りに、ボクは慌てて口を閉じた。「凶暴女」とでも言おうものなら、何をされるかわからない。しかし時折、姉の嬉しそうな笑顔が印象に残っていた。









 翌日。
ボクは完成させた絵を布で包み、再び佐伯のいる大学に向かった。姉は残念ながら道場の稽古日と重なってしまい、電車で向かうことになってしまった。それでも姉の無念さに比べれば大したことではないのだろう。姉は大げさに「浮気はさせないように、しっかりと見張ってきなさい」と言いつけてきた。果たして佐伯がいつの間に姉のものになったのかは分からないが、姉曰く、「部員との約束事があるからもう決まったようなもの」らしい。佐伯にとってはこれ以上ない不運としか言いようがないだろう。姉に気に入られた時点で、運命だと思って諦めてもらうしかない。
 大学に到着すると、大学際は連日行われているようでその日も賑わっていた。正面入り口に大きな張り紙が公開されており、そこには自分でも知っている有名なアーティストの名が記されたあった。どうやらこの祭りのために依頼したものらしい。そのためか、昨日よりも多くの人で賑わっている。その大半が、この有名アーティスト目当てに参上しているのだろう。
「・・・ボクには関係ないか」
 ボクはそう苦笑して歩き始めた。ボクは元々音楽には興味がない。生まれついての音痴なのか、音程がなかなか合わせれない。まぁ・・・どうでもいいことだが。
 昨日のように校舎内に入り、美術展を訪れた。しかし案の定、佐伯は行方不明らしい。
「どの辺りにいるか、分かりませんか?」
 ボクが受付嬢に尋ねると、彼女は難しそうに首を傾げた。そもそも場所が分かっていれば連行部隊が出動しているだろう。やはりここの部員たちも場所は把握していないようだ。ボクは彼女に頭を下げ、美術展を出た。そして大学祭の資料に目を通す。なかなか大きな大学で、更に一般の客も大勢入っている。この中から人を1人探すことは、なかなか難しそうだ。
 一応昨日佐伯が寝ていた講堂も調べてみたが、頻繁に隠れ場所を変えているのかいなかった。受付嬢が言うには、「とにかく寝ている人を探してください」とのことだった。ならば人気の少ない場所にいる可能性は高いが、そんな所を虱(しらみ)潰しに捜索しては日が暮れてしまう。何かいい方法は無いものだろうか・・・。
 ボクは溜息をついて、講堂の窓から外を眺めた。ここは4階に位置しているのでなかなか眺めが良い。この位置から佐伯を発見することができれば儲けものなのだが、そう上手くはいかないようだ。ボクは苦笑して講堂を出た。
「・・・はぁ、佐伯さんはどこにいるんだか」
 来賓用の入り口に辿り着き、ボクはそう呟いた。昨日会ったこの場所にもいないとなると、もはや虱潰しに捜索するしか手段がない。僕がそう溜息をついた直後、そこに1人の男が立っているのに気がついた。男はこちらを気にすることなく、2枚の絵を見上げている。佐伯と、姉妹校の学生の絵を・・・。
 ボクは彼に声をかけることもせず、一緒になって再び絵を見上げた。やはり何度見ても心地よい。見る人の気持ちをそうさせるような魅力が、この絵にはあるのだろう。男もそれを感じたのか、軽く笑みを浮かべている。
「良い絵だ」
 男がそう呟く。
「ボクもそう思います」
「オレは絵のことはあまり詳しくないけど、分かる。本当に良い絵だな・・・」
「ここの学生なんですか?」
「いや、ここの学校の姉妹校に通ってる。この佐伯という人とは面識はないけど、もう1枚の絵を描いた人とは知人でね。こちらに寄贈された絵があるということで見に来たんだ」
 男はそう言い、水無月という人が描いた絵を見つめている。時折、寂しそうな表情を浮かべているのが気になったが、深くは聞かないことにした。
「見に来て・・・良かった。それよりも君は何しにここへ? どうやらこの絵を見に来た訳ではなさそうだけど」
「あ、実はこの絵を描いた佐伯さんに会いに来たんです。でもどうやら逃亡中のようで、今探してるところなんですよ」
「逃亡?」
「部長という役職にあるみたいですが、どうやら責任感はないみたいです」
「それは困った部長だな」
 男は苦笑して携帯電話を取り出した。「ちょっと待ってくれ」
 男はキーを操作して誰かと連絡をとっている。電話の相手が誰なのかは分からなかったが、少しして男は電話を切った。
「今知人に話をしたら、佐伯という人は屋上にいるということを教えてくれたよ。一度見に行ってはどうかな?」
「屋上ですか? ・・・分かりました。一度探してみます」
 この男の知人がどうしてそこに佐伯がいるということを把握しているのだろうと気になったが、今は手がかりが見つかったことを幸運に思うことにした。ボクは男に礼を述べ、走り出した。暫くして背後を振り向くと、男の傍には銀髪の女性が立っていて何やら話をしていたが、気にせずに屋上へ向かうために階段を駆けていった。



 屋上は普段は立ち入り禁止になっているらしく、扉にそう記されてあった。鍵でもかかっているかと思ったが、扉は素直に開いてくれた。扉を開けると冷たい空気が肌に当たる。その心地よさを感じながら屋上へ出ると、フェンスに身を任せている佐伯の姿を確認できた。ボクは唇を噛み締め、佐伯の元に歩き出した。
「・・・こんな所で何してるんですか?」
 どうやら眼下に見える大学際の様子を観察している訳ではないらしい。佐伯はフェンス越しに冬が近づいている秋の空を見上げていた。ボクが声をかけると、佐伯はそのままの状態で口元を緩めた。
「・・・ちょっと考え事をね」
 佐伯は身を翻すと、ボクと視線を合わせた。「それで、ボクに何か用かな?」
「はい。昨日佐伯さんの話を聞いて、もう1度絵を描くことにしたんです。今度は新しい気持ちで・・・。それを佐伯さんに伝えたくて今日は来ました」
「君が持っているそれが新しい絵かな?」
「はい。昨日夢中になって描きました」
「見せてもらってもいいかな?」
 佐伯にそう言われ、ボクは絵を包んでいる布を取り、自分が描いた水彩画を佐伯に見せた。佐伯はその絵を見ると、微笑んで肯いていた。
「うん・・・君の気持ちがよく表れてる絵だね。気持ちのいい絵だ」
「佐伯さんがボクにアドバイスをくれたおかげです」
「・・・絵は、苦しんで描くものじゃない。どんな人にも、楽しんで描いていってほしいんだ。苦しんでいる人を見ると、ボクは不似合いな説教をしてしまうみたいなんだよ」
 佐伯は笑って頭を掻いている。「でも部長業務はごめんだけどね」
 まるで子供のような笑顔を浮かべる佐伯に、ボクもつられて笑ってしまった。

「佐伯さんにはお礼をしないといけないですね」
「お礼? そんなのいいよ」
「いえ、遠慮しないで下さい。あ、そういえば姉から伝言があります。『浮気はしないで』とのことです」
「・・・は?」
「そんな訳で、佐伯さんにはボクの姉をプレゼントしますよ」
 ボクのその言葉に、佐伯は全力で「結構だよ」と叫んでいたが、もう佐伯に決定権はない。なぜならこの時、道場の練習を早々に切り上げてきた女拳士が階段を駆け、屋上に登場してしまったからだ。屋上へ辿り着くな否や、佐伯に突撃する。そしていつか見た景色のように、佐伯は再び姉に抱きつかれていた。どうやらこの人とは長い付き合いになりそうだ・・・。









【エピローグ】

 季節は廻り、秋が終わり、冬が終わり、春がやってきた。
今日もボクは絵を描いている。高校の美術部内でボクの部長就任が濃厚になっているという噂もあるが、そんなことは全く気に留めてもいない。ボクがいつものように部屋で絵を描いていると、これもまたいつものように姉が部屋の戸を開けてやってきた。
「姉さん、ノックくらいしてくれよ」
「別にいいじゃない。あんたが着替えとかしてても私は気にしないから」
「ボクが気にするんだよ!」
「それよりも、聞いてよ。今日私佐伯様と一緒に出かけたんだけどね」
「無理矢理拉致したの間違いだろ?」
「そんなのどっちでも一緒よ。それで、佐伯様は卒業したら絵を描くために海外に留学するらしいのよ」
「そりゃ、あの人は日本で収まる器じゃないだろうからね」
「だから私、決めたのよ」
 姉は握り拳を作って意気込んでいる。ボクが何を決めたのかを訊ねると、姉は「ついていくのよ」と叫んだ。
「今から語学を勉強して、佐伯様がどこに行っても役にたてるようにしないとね。通訳できる人がいれば、ずっと傍にいれるじゃない」
「それじゃ姉さんもいつかは佐伯さんを追ってどっか行くの?」
「何、寂しい?」
「ううん、清々します」
「勇次!」
 姉の拳が振りあがるのを見て、僕は苦笑してストップをかけた。
「じょ、冗談だよ。姉さん、頑張ってね」
 ボクのその言葉を聞き、姉は嬉しそうに肯いて部屋を出て行った。どうやら姉は本気で佐伯を気に入ってしまったらしい。ボクも今では佐伯のことは嫌いでないので、あの人の義理の弟というのも案外悪くないかもしれない。そんなことを考えている自分に気づき、再度苦笑した。



こんな気持ちはいつ以来だろう。
自分の悩みを1つ捨てるだけで、世界がこんなにも違って見える。
今まで苦痛に感じていた景色が、今ではすごく魅力的に映る。
自分はつまらない意地で一度は絵を捨ててしまった。だけどもうその大切なものは手放さない。
・・・自分が捨ててしまったものが、こんなにも素晴らしいものだと気づかされたから・・・。
今日も、明日も、そしてこれからも、ボクは絵を描き続けていこう。

『自分が捨てたもの』 End

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