『中編』


 休日、ボクは絵を描いている途中に水彩の青が切れていたことに気付いた。3日前に使い切ったのだが、どうやら「面倒くさいなぁ」と買いに行くのを渋ってしまったようだ。そして自分のその出不精な性格が災いして、困った現状に置かれてしまっている。今描いているのは風景画だが、ここで青が無くては味がなくなってしまう。雪国でもないのだから、流石に空の色が無いのはマズイだろう。

「・・・買いに行くしかないか・・・」

 ボクは諦めて溜息をつき、財布の中身を確認して身支度を整えた。行く場所はいつも自分が道具を購入しているお店だ。その店の店主とは仲が良く、もしうまくいけば2割はまけてもらえるかもしれない。そんな期待を僅かに抱えながら、ボクは家を出た。外へ出ると、あまりに快晴すぎて気分が悪くなりそうだった。最近は家に篭って絵ばかり描いているから、直射日光に対して強烈な刺激を覚える。「吸血鬼はこんな気分なんだろうな」とどうでもいいことを考えながら、商店街に到着した。ここの商店街は色々な店が揃っており、出不精な自分にとってはありがたい場だ。何しろ、あっちこっち動かなくても、ここで大抵のモノを揃えることができるのだ。普通の人なら大手のスーパーに行くのだろうが、人ごみを嫌うボクにとって、こういった商店街の雰囲気の方がずっと良い。


「やぁ、佐伯クン。久しぶりだね」
「あ、店長。安くしてください」

 商店街の中にある美術用具店の店長、泉と顔を合わせて開口一番そう言った。泉は「いきなり値切りか?」と笑った。この対応もいつものことなので、泉は両腕を組んで「半額にしてやるよ!」と胸を張っている。2割は堅いだろうと思っていたが、半額とは思いもよらぬ幸運だ。しかしその値段で売って黒字が出るのか心配ではあるが、泉はそんなことなどお構いなしだ。元々商売の才能がないのかもしれない。

「この店、そのうち潰れますよ?」
「気にするな。この店は趣味でやってるようなもんだから、売り上げなんて気にしてないよ。そんなに心配してくれるんなら、2割増しで買ってくれるかい?」
「趣味万歳ですね!」

 ボクがそう言うと、泉は再度笑い出した。ひとしきり話しをすると、店内を物色させてもらった。店自体はボロく見えるが、中はそれほどでもない。むしろ、貴重な道具が揃っていて穴場と呼ぶに相応しい店だ。泉は趣味でやっていて売り上げなど気にしていないと言っていたが、こんな穴場の店がなくなってしまうのはボクにとって嬉しくない。何とか残っていってほしいものだ。

 水彩の青を最初に手にし、ついでにキャンバスを入れる額も購入した。この額があるとないとでは絵の雰囲気がガラリと変わってしまうのだ。そのため額の色も十分に選別させてもらった。半額と言われたので、他にも数点購入した。


 道具を購入すると、店の外から何かの音が響いてきた。ボクは何ごとかと窓から覗き込むと、正面にあるコンビニ前で空き缶が散らばっているのが見て取れた。その場には女店員と、ゴミ袋を頭からかぶってしまっている不幸な青年。何が起きたのか正確には分からないが、あの青年が不幸な目にあったということは間違いないだろう。泉はその光景を覗き込み、嬉しそうに微笑んでいる。

「あ〜・・・またやっちゃったかぁ」
「また? 何度もある光景なんですか?」
「あの子は少しドジでね。これで丁度100回目なんだよ。さ、折角だからあの不幸な青年に声をかけてこようかな。あ、佐伯クン。また買いに来てよ? 今度は8割引にしちゃうから」

 泉はそう言い残して店を出て行った。8割引はやり過ぎだと思うが、泉の目的が趣味のためなのか店を潰すためなのか分からなくなってきてしまった。そんな思いを抱きながらボクは購入した商品を手にして、コンビニ前で話をしている泉や不幸な青年たちの姿を背に、商店街を後にした。







 商店街から少し歩くと、不意にお腹が鳴ってしまった。
それまでは気にしていなかったが、お腹の音を聞くと何故かお腹が空いてきてしまった。どうせなら商店街にある喫茶店にでも入ってこればよかったのだが、ここから商店街に戻るのも億劫だ。しかし鳴り止まぬ腹の音を聞き、ボクは仕方なく傍にあった料理店の扉を開けた。

 店内は綺麗に装飾が施されており、テーブルには家族連れの客がちらほら確認できる。今日は日曜日だから、父親が仕事疲れが残る中、無理して家族サービスに勤しんでいるのだろう。全く、ご苦労様だ。そんな父親たちの疲れを察すると、彼らが偉大な戦士にさえ思えてしまう。・・・ま、それは言い過ぎかもしれないが・・・。


 ウェイターがボクの来店に気付いてこちらに駆け寄ってきた。タバコを吸うかどうか聞かれたが、すぐに「吸いません」と伝えて禁煙席へ案内してもらった。タバコを吸うことのできる年齢にはなっているが、どうにもあの喉に詰まるような感覚が好きになれない。一度興味本位で吸ったことがあるが、すぐにむせて涙目になってしまったことを今でも覚えている。それ以来タバコはアンタッチャブルな存在なのだ。吸ってしまったのが小学生だったので嫌悪感しか覚えなかったというのは置いておいて、タバコは嫌いだ。


 テーブルに案内されて、「ご注文が決まりましたら、そちらのボタンでお呼び下さい」と言うと、ウェイターはメニューを残して引っ込んでいった。そのウェイターを目で追うと、結構忙しそうに働いている。確かに今は昼時なので、大変な時刻なのかもしれない。そんなことを考えながらメニューを開いた。

「・・・何にしようかな」

 洋食、和食、中華・・・色んなメニューが揃っているものの、逆にメニューが多すぎて決めにくい。コップの注がれた水を一口飲んで喉を潤し、食指を動かされるようなメニューを探した。そんな時、聞き覚えのある声が耳に届いた。その声を聞き、ボクは顔を上げた。その声の主は喫煙席側に座っていて全身を捉える事ができないものの、ボクはすぐにその人物が誰か判断できた。

「・・・中山か」

 間違いない。あそこに座っているのは中山だ。そして中山に向かい合うように、ボクの知らない男が座っている。中山に恋人がいるという話は聞いたことはないが・・・いや、そもそもいたとしても自分に伝えるはずもないだろうが、メニューよりもそちらに食指が動いてしまった。視線はメニューに向けられているが、意識は中山たちの会話に向けた。


「・・・それで、どうするの?」

 中山のその言葉を聞き、ボクは寒気を覚えた。この中山の声は明らかに不機嫌な時の声だ。ボクがそれを聞き間違えるはずがないのだ。伊達に毎日中山を怒らせている訳ではない。

「・・・仕事だから、仕方ないだろう。オレは2週間後、フランスへ行く」
「それじゃ・・・私はどうなるの? いつ帰ってこれるのかも分からないんでしょう?」
「でも、これは栄転なんだ。このチャンスを指を咥えて見送ることはしたくないんだ」
「・・・そう、分かった」
「・・・ああ」


 そこで会話が途切れた。中山たちの会話の様子からすると、どうやら男の方は年齢からいっても、中山の恋人に近い存在だろう。その男が、2週間後にフランスに行く。そしてそれを知ると、先日の中山の迷いの原因がはっきりしてきた。あのキャンバスを覆っていた迷いは、これを差していたのかもしれない。

・・・中山の迷い。
それは彼を止めることなのだろうか。それとも、彼と離れることなのだろうか・・・。

 ボクはメニューから目を離し、2人が座るテーブルに目を向けた。中山は顔を俯かせ、じっと口を噤んでいる。そうしている姿は、今にも泣きそうに見えた。
あの強気な、中山が泣きそうなのだ。


「・・・それじゃ私・・帰る。仕事・・・頑張ってね」

 中山は顔を上げてそう笑った。そしてそう言い残すとすぐに席を立ち、店を飛び出していった。1人残された男は、中山の後姿を見て頭を抱えている。それを見て・・・ボクは見てはいけないようなシーンを出歯亀してしまったと感じた。中山は最後に笑顔で彼の仕事を応援していたが、内心、泣きそうなのだったのだろう。
 ボクは好きな人がいない。そもそも、初恋すら経験していない。大学生にしてそれは珍しいかもしれないが、本当のことなのだ。そんなボクでさえ、中山の気持ちを察することができている。それならば、あの男性も当然中山の気持ちに気付いているはずだ。

中山の・・・『離れたくない』という気持ちに・・・。









 翌日の放課後、講義を終えて美術室へ入ると、活動日でもないのに、そこには中山の姿があった。中山はボクに気付くと、笑顔を向けて「お早うございます」と言った。

「ああ・・・お早う」
「センパイってマジメに活動しないのに、部室には毎日来るんですね」
「そうだね。ここは落ち着くからね」

 ボクはそんな他愛無い会話を続けながら、中山の様子を窺った。中山は相変わらず笑顔でキャンバスに色を加えている。そんな中山を、そんなキャンバスを見て、ボクは彼女が未だ悩んでいるということを感じ取った。表面上で笑顔を作っていても、中山の描く絵からは悲しみしか伝わってこない。未だ悲しみを抱えている中山に、ボクは溜息をついた。

「・・・恋愛って面倒くさいな・・・」
「え・・・何か言いましたか?」
「いや、何でもない。それより、迷いの原因は解決したかな?」

 ボクがそう聞くと、中山の手の中にある筆が一瞬動きを止めた。しかしそれは本当に一瞬で、再び動き始めた。中山はボクの顔を見て、「センパイのお蔭で、バッチリですよ」と笑っている。本心では悲しみに支配されているだろうに、表面上ではそれを微塵も感じさせない。なかなかの役者振りだが、ボクは例の一部始終を見てしまっているのだ。あの場面を見ている限り、『解決した』とはとても言い難い。


「ボクは・・・部長なんだよね」
「当たり前じゃないですか! 他のセンパイ方にも聞きましたけど、皆・・・佐伯センパイを推薦してたらしいじゃないですか。それなのに佐伯センパイが『クジで決めよう』とか言って、結局成るようになったんですよね。センパイが部長になることは必然だったんですよ。部長は・・・佐伯センパイです」
「そっか・・・」


 ボクはそう呟いて、顔を上げた。確かに望まぬ役職だが、ボクは部長なんだ。それならば、部員に教えてあげるのも部長の仕事なのだろう。面倒くさいが、この際仕方ないか・・・。

ボクは何かを決意し、キャンバスの前に座って筆をとった。

・・・中山に教えてあげよう。
それは同情からじゃない。あくまでも部長として、中山に伝えよう。

・・・ボクが描く絵を通して・・・。



『中編』 完
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