『後編』



 ボクは・・・昔から嫌なことがあると、筆を手にしていた。
嫌なことがあると、絵に逃げていた。そうして逃げていたボクだからこそ、分かるんだ。
逃げて、逃げて、逃げて、逃げ続けても、自分の心が落ち着きを取り戻したとしても、現状は何も解決しない。ボクはそこから抜け出す勇気をもっていなかった。だからこそ絵だけを傍に置いて、極力人と関わろうとしなかった。


画用紙やキャンバスは、いつでも自分の気持ちを受け入れてくれる。嫌なことがあっても、彼らを前に筆をとれば、その嫌なことを忘れさせてくれる。だけども、それはその嫌なことから目を逸らしているに過ぎない。

・・・中山も、昔のボクと同じだ。
本心では、彼の隣にいたいと思いながらも、その気持ちを忘れようと逃げている。
彼のことを忘れる・・・それも1つの選択肢なのだろうが、その大切な存在を忘れるという選択を、正直してほしくない。それが、まだ間に合うのかもしれないのならば尚更だ。


それを伝えるために、ボクは筆を走らせる。
1枚のキャンバスに、その気持ちを筆に乗せて描いてゆく。
彼女に・・・ただ一言伝えるだけの勇気を与えるために・・・。











 連日徹夜を続け、4日後にようやくその絵は完成した。
まだ、彼がフランスに行くには1週間近く時間がある。ボクは眠ろうとする目蓋を無理やりに押さえつけ、その絵を布で包んで車に詰め込んだ。時刻はまだ朝方の5時。時計を確認すると、ボクは車に乗り込んでエンジンをかけた。途中睡魔に負けそうになって反対車線を走っている瞬間もあったが、何とか事故も無く学校へ到着できた。そしてすぐに美術室へ行き、中山の絵の前に立った。


「相変わらず、中山は泣きそうな絵を描いてるんだな・・・」

 中山の絵は、高度な技術で描かれているが、それを見ても何の感動も湧かない。それどころか、悲しい気持ちになってくる。それはこれを描いた中山が悲しい気持ちを抱いて描いたからであろう。絵は本来楽しい気持ちで描くものだ。こんな気持ちを抱えたまま、筆を走らせてほしくない。

 中山のキャンバスをイーゼルから外し、自分の絵と取り換えた。そしてその上に布を被せ、中山の絵を自分の車の中に隠す。これが・・・ボクが中山に伝えることのできる精一杯の事だ。後は中山がボクの絵を見て、それを感じ取ってくれるのを祈るだけだろう。そうして一仕事終えたボクは、今まで堪えていた睡魔に負け、部室のいつもの定位置で横になって眠りに落ちていった・・・。











 どれくらい眠っていたのか、気がつくと既に日が傾いていた。一瞬それが朝焼けなのか夕焼けなのか判断に困ったが、部室の窓から生徒が帰ってゆく姿があったので放課後なのだと理解できた。起き上がって目を凝らしていると、隣に中山が座っていることに気がついた。

「な、中山・・・いつの間に・・・」

 驚いているボクの反応に、中山はクスリとも笑わず俯いている。その反応から、自分の絵が摩り替わっていることを知ったのだろう。中山はゆっくりとボクが摩り替えた絵を見つめた。


「・・・センパイ・・・どういうことですか?」
「何が?」
「・・・とぼけないで下さい。センパイが絵を取り換えたんでしょう?」
「・・・・・・」
「・・・黙っていても、分かります」

 中山は立ち上がり、その絵の前に立った。
キャンバスには、桜並木が描かれている。そして桜吹雪の隙間から光が差し込み、2人の男女が手を繋いでその道を歩いていた。
ただ・・・それだけの絵だ。

「これは・・・センパイが描いた絵です。昔からセンパイのタッチを見てたから、分かるんです」
「・・・・・・」
「私の彼のこと・・・知っていたんですか?」
「・・・・・・」
「この絵を見たとき、すぐに分かりました。センパイが私に伝えようとしていることが・・・」

 中山はそう言って振り向いた。
その眼は、未だ迷っている眼だ。それを見て、ボクは眼を逸らした。

「・・・絵に逃げるのは別に悪いことじゃない。現に、ボクもしょっちゅうやってるからね。でも・・・中山はそんな時間ないだろう? このまま逃げていたら、間に合わなくなってしまうよ」
「・・・私は・・・」
「絵は・・・言葉にしなくても伝わることがある。でも逆に、言葉にしないと伝わらないこともあると思うんだ。中山はまだ・・・伝えてないだろう?」
「でも・・・彼の邪魔に・・・」
「彼のことはどうでもいい。今は中山がどうしたいかだ。中山がどうしたいかを、彼にちゃんと伝えるんだ。そうしないと・・・ずっと後悔することになるよ。ボクみたいに・・・ね?」








 しばらく考え込んでいた中山が、そっと顔を上げた。その顔には、何かが吹っ切れた様子が窺える。中山はクスッと笑うと、茜色がかった夕日を眺めた。

「・・・やっぱりセンパイは、私の尊敬する人です。でも・・・こんな回りくどいことせずに、直接言ってくれればいいのに・・・」
「口で説明するなんて、そんな面倒なことはしたくない」
「こっちの方がずっと面倒だと思いますけど?」
「そう?」
「そうですよ」

 中山の笑顔につられ、ボクも笑ってしまった。
・・・でも、ボクにはこれしかできなかった。誠心誠意説得することなんて、赤の他人のボクにできるはずもない。だからこそ幸せな風景の絵に、気持ちを乗せたのだ。絵ならば・・・他人のボクの気持ちでも心に響かせることもできる。絵には・・・そういう魅力があるのだ。



「・・・センパイ」
「ん?」
「ありがとうございます」


 中山はボクの前に手を差し出した。笑顔を浮かべる中山に、ボクは微笑んで彼女の手を握った。少し照れくさくもあったが、嬉しくもあった。そして、ボクはそこで中山と別れた。


次に中山と連絡がついたのは、それから3週間後のことだった・・・。











【エピローグ】

 大学が終わって家へ帰宅すると、中山からの手紙が届いていた。

「フランスからのエアメールか・・・」

 中山はあの後、彼にくっついてフランスへ旅立った。一緒にいたかったのは中山だけではない。彼も、同じ気持ちであったのだ。だが、遠い異国の地へ彼の都合で連れまわすことなど、気が咎めてしまったのだろう。何しろ中山はまだ大学生だ。しかし中山の「一緒にいたい」という言葉で、彼の決意も固まった。
 彼はすぐに中山の両親に会いに行き、フランス行きの許可を願い出た。それも、結婚を前提としてだ。両親・・・特に父親には最後まで渋られていたらしいが、彼の強い意志に負け、共にフランスへ旅立った。

 手紙を読むと、女子の得意な丸文字でなく、中山らしい楷書体で書かれてあった。
彼の仕事は大変だが、2人で仲良くやっているらしい。そして年内に両親をフランスに呼んで、式を挙げるということも記されていた。

 あの中山が結婚か・・・。少し驚いたが、それを後押ししたのは自分のようなものだ。そういう結果になることは、予め分かっていたはずなのだ。しかし今でもこれで良かったのか、考えるときがある。正直、中山を後押ししようか僅かに迷ったのだ。それだけ・・・自分は中山に惹かれていた。


「・・・初恋の人・・・か」



 自分は中山のことが好きだったのかもしれない。
自分が余計なことをしなければ、彼女は今でも自分の傍にいたのかもしれない。だけど、自分の気持ちを抑えても伝えたかった。自分のことよりも、好きな人の幸せを優先してしまったのだ。これが恋愛かと笑いつつも、胸に僅かな痛みを覚えた。

・・・だけど後悔はしていない。
自分は昔とは違う。今は逃げてばかりいた昔とは違うのだ。


「良い・・・空だな・・・」

 ボクは顔を上げ、微笑んだ。
・・・今度は、この空を描こう。今の幸せな気持ちを込めて描こう。
タイトルは・・・どうしようかな・・・。

ボクは少し考え込み、再び笑顔で空を仰いだ。

「タイトルは・・・この空の下で・・・」



『この空の下で』 End

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