『いつものように』

 入学式を終えて一週間が経過した。九条はまだ5月にもなっていないのに5月病のように憂鬱な気分になっている。
あれ以来涼子と顔を合わせていない。広いキャンパスの中顔を合わせる確率は当然少ない。それどころかバイトでも会っていないのだ。
今岡の話によると「体調を崩したからしばらく休ませてもらう」とのことだった。一体、九条の知らないところで彼女に何があったのだろうか。
仮入部している美術サークルでも時折彼女の話題がもち上がる。
「水無月さん最近活動にこないね」
 涼子の友人が心配そうに呟いている。どうやら大学にも来ていないようだ。同じバイトで働いているということで様子を聞かれるがただ首を傾げることしかできなかった。
 秋に絵画のコンクールがある。本来ならば今の時期から構想を練り、作業を開始しなければならないのだが彼女の真っ白なキャンバスはそのまま寂しさを表しているかのようだった。
 九条は涼子が言った言葉を思い出した。普段の彼女ならあんなことは言わない。これだけ長い間休んでいるのを知ると当然心配になってくる。あの時無理にでも彼女を捕まえ、詳しい理由を聞けばよかったと今更ながらに後悔した。
「・・・一体オレは何を考えてるんだろうな」
 ただ考えるだけで、何も行動を起こさない自分に対し腹がたった。あの時の涼子を見るのが恐いと感じているのだ。それにまだ涼子と出会って僅かな時間しか経っていない。こんな薄い関係の自分よりもっと仲の良い友人が様子を見に行ったりすればいいのだと、格好悪いことも考え出してしまっている。
「最低だな」
 九条はボソッと呟いた。
「ね、九条君。いいかな?」
「どうかしましたか、中山先輩?」
 2年の中山に呼びかけられ、九条は我に返った。
「デッサンの方、進んでないけど大丈夫? 何かわからないことあったかな?」
「いえ、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
 中山は一つ上の先輩だが、えらぶることもなく後輩たちにも非常に慕われている。何でもソツなくこなし、優しく、気がきき、理想の女性といっても過言ではないだろう。そういった中山であるから、上級生にもとても受けがいい。ここ美術サークルは中山と涼子という魅力的なマスコットキャラが双璧を成しているために人気を博しているのだと感じた。
 突然、部屋の扉が勢いよく開いた。
「ごめんなさい、水無月涼子復活しましたー!」
 息を切らし、涼子は部室へ入ってきた。その涼子の姿を見て、部員がそれぞれ涼子に近寄った。
「涼子、一体どうしたんだ? 1週間も休んでさ」
「いや、実は5月病にかかってしまって」
 男子部員の言葉に涼子はそう返した。皆はそれを聞き、涼子らしいと笑った。
 涼子は九条に気付き、歩み寄った。
「九条君、バイト休んじゃってごめんね。今日から出勤します」
 涼子はそう言って微笑んだ。
 その笑顔はいつもの涼子だった。あの時の冷たい雰囲気など微塵も感じられない。もしかしたら夢だったのかもしれないと感じさせるほどだった。
「あ、はい」
 九条はただ肯くことしかできなかった。呆気にとられていたのだ。
 あの朝、九条は願った。事態が良くなることを。もしかしたら自分が図らずもそれは好転したのかもしれない。あの時の言葉の意味を問いただそうと思ったが、彼女は普段通りに接してくれている。ならばもうそれでいいと思った。
 涼子のキャンバスは、やっと描かれ始めたのだから。

 桜が散り、緑の景色が目立つ季節になった。
空は明るく大地を照らす。鳥たちが心地よい歌を流し、風が温かさを感じさせる。
私は知っている。
生きているということはこんなにも楽しいことなのだ。
 彼女は周りの自然を楽しみながら公園を歩いた。だが不意に、九条のことを思い出した。
最近、涼子は九条とよく一緒にいる。涼子は気付いていないかもしれないが、好意を抱いているのは涼子のことをよく知っている者ならばすぐに気付く。全く、あんな男のどこがよいのだろう。
 彼女は苛つく頭でベンチに腰をおろした。
「九条・・・瞬か」
 苛つく感情の中、彼女は自然と九条が気になりだしてきた。何より、涼子が気を許している男だ。
「調べてみるか」
 彼女は怪しく微笑し、公園をあとにした。

 コンビニはいつにも増して盛況である。マスコットキャラの涼子が復帰したというのもあり、常連のお客が復帰祝いをもってやってくる。全く大した人気だ。涼子は大勢のお客に笑顔を振り撒き、久しぶりのバイトに勤しんでいる。その姿を見て、九条も安心した。もう何の心配もいらないようだ。
「涼子さん、オレゴミ捨ててくるので店内お願いしますね」
 九条は店内に残っているお客を頼み、ゴミをまとめて外へと出た。店外にあるゴミ箱を開け、可燃ゴミ、不燃ゴミとそれぞれの袋につめる。この店を利用してくれているお客はこういった分別をしっかりしてくれているから楽だが、他の店では可燃ゴミの袋に缶が入っていたりもする。日本語が読めない海外の住人じゃあるまいし、ゴミ箱に書かれている『可燃ゴミ』『不燃ゴミ』くらい読めないのかと言いたくなる。一番困るのは中身の入った缶を捨てることだ。ゴミ箱の中で中身がこぼれ、非常にやりづらい。今の時期ならばまだいいが、夏場になるとこれが腐り異臭を放つだろうと考えると、ため息がでる。
 九条はゴミを入れ、袋の口をしばった。
「あの人にやらせるとまた散らかすからな・・・」
 そう言って九条は涼子と初めて会ったときのことを思い出した。会ったといっても一方的な被害にあっただけで良い思いでではないが・・・。
ゴミ袋を所定の場所に入れ、近くにある水道で手を洗った。こういった仕事をすると必ずといっていいほど制服が汚れる。クリーニング代もバカにならない。
 九条が店に戻ろうと振り向くと、そこには女性が立っていた。
「どうかしましたか?」
 この女性は明らかに自分を待っていたかのようだった。
「あの・・・」
 女性は俯きながら口を開いた。「涼子のことで・・・聞きたいことが」
「涼子さんのお知り合いですか?」
「ええ。仕事とかどうですか? あの子ドジだから心配で」
「ああ・・・まぁ確かにドジなところもあるかもしれませんが、頑張って働いてくれてますよ。すごく笑顔でお客様にも好評です」
「そうですか・・・ありがとうございます」
 女性はそれだけ言うと走って行ってしまった。一体なんだったのだろうと思ったが、店に一人残している涼子が心配になり急いで店内へと向かった。そしてその女性と交わした会話もすぐに気にならなくなった。

「もうじきセミナーだね」
 休憩時間中、涼子はお茶を飲み干して言った。
「セミナーって何するんですか?」
「ん〜・・・要は新入生の歓迎会で、そこで先輩たちとも仲良くなろうって企画だよ。九条君もこのセミナーでたくさんの友達をつくらないとね」
「オレに全く友達がいないかのような言い方はやめてください」
「あはは、ごめんごめん」
 涼子は無邪気に笑っている。「今年は京都かー。私神社や仏閣って結構好きだから楽しみだな」
「意外ですね。涼子さんにそんな渋い趣味があるなんて」
 九条は涼子のようにそんな趣味はもてそうにない。昔からそういった歴史云々にまつわる話は聞いただけで思考能力が停止する。小学校の修学旅行で京都には行ったが、神社仏閣に関する思い出は皆無に等しい。ただただ土産物を物色していた記憶しかない。
「ほら、この時間は自由に散策できるんだよ」
 涼子はカバンからセミナー用のしおりを取り出した。「ね、一緒に散策しない?」
「神社、仏閣をですか?」
「うん。友達はそういうのにあまり興味なくて、一緒に回る人がいないんだ。ね、いいでしょ?」
「オレも興味ありません」
「うん、わかった。じゃあ決定ね。この散策の時間になったらメールするから、どこかで落ち合おうね」
「・・・って涼子さん」
 涼子に何を言ってもまるで伝わることのない、見えない大きな壁があるかのように思えた。「はぁ・・・わかりましたよ」
「本当、楽しみだねー」
 涼子は笑顔を輝かせてしおりをながめ始めた。

『いつものように』 完  


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