『夕空の下で』



 自分の初恋はいつだっただろうか。
「初恋はお父さん」という友達もいたが、どうやら世間では父親はカウントされないらしい。父親を含む血縁関係以外で好きになった人というと、幼い頃優しくしてくれた幼稚園時代の男の先生を思い出す。そういった女性の職場の中にいる男の先生は、他の女の先生よりもずっと優しく接してくれた。だからこそ、自分もそういう優しいその先生が好きになったと記憶している。


 明日香は正面にいる水橋の顔をまともに見れずにいた。
部の活動中はあまり気にしてはいなかったが、今日―いや、あの図書館で顔を合わせた後からずっと彼のことばかり考えてしまっているのだ。ずっと頭の中に水橋が存在していたため、それが胸の鼓動を更に助長させた。
「・・・先輩」
 水橋は緊張した面持ちで、口を動かした。彼の言葉を聞き、明日香はビクッと身体を硬直させた。一体どんな言葉をかけられるのか、気が気で仕方なかった。彼のことを考えてしまっていて、それが余計に彼を意識させてしまっているのかもしれない。これだけ人のことを考えたのは、暴走を心配させる七海くらいのものである。

「今日は・・・裏門から帰ってもらえませんか?」
「・・・え?」
 頭の中で何度も現在の状況をシミュレートしていたが、そのどれとも違うセリフを彼は発した。そこでようやく明日香は本当に自分の勘違いだということに気付いた。考えてみれば当然かもしれない。自分と水橋はろくに話したこともないし、七海のように可愛くもなければ、自分で言うのも傷つくが女性としての魅力に欠けているように感じる。「私、バカだな」と心の中で苦笑した。しかし、それと同時に別の疑問が浮かび上がった。

「何で裏門からなの?」
 別に正門から帰れば良いものなのに、なぜ遠回りしてわざわざ裏に廻らなければならないのだろうか。水橋のその意図は分かりかねた。その明日香の疑問に、水橋は顔を俯かせてどう答えようか悩んでいるように見える。どうやらただ事ではないようだ。
「何も・・・聞かないでください。ただ・・・今日のところはお願いします」
「ん〜・・・理由を話してくれないと納得できないよ。何で正門から帰っちゃダメなの?」
「それは・・・」
 水橋は顔を逸らした。しかし「お願いします!」とはっきりと言うと、走って行ってしまった。その場に残された明日香はしばらく呆然としていた。訳もわからず、ただ一方的に意見を押し付けられてしまった。頭の中で思い描いていた『告白シーン』も当然なく、彼が残した言葉は「裏門から帰ってほしい」というものだけ。しかし理由もわからずその通りに動くのは正直、癪だ。一体正門に何があるのか、その疑問がどんどん強くなってきた。


「・・・あいつ、男だな」
 不意に隣の教室から見知った男が出てきた。
「桐沢、あんた隣の教室で何してたのよ?」
「いや、少し気になることがあってな」
 守はそう言うと、後ろにいた七海に同意を求めた。七海は彼女にしては珍しく難しい顔をしている。
「うん、別に盗み聞きはしてないよ」
「はいはい、盗み聞きしてたのね。それで桐沢、気になることって?」

 明日香は苦笑して守に向き直った。どうやら彼らは水橋が隠していることを知っているらしい。彼らの表情がそれを裏付けている。守は神妙な面持ちで、ゆっくりと話してくれた。
 彼が渡辺に脅されていること。そして渡辺が明日香を狙っていること。そして、渡辺が正門近くで待ち構えていることなどを簡潔に話した。
「それじゃ、水橋クンは私のために?」
「ああ、いつも通り正門を通れば奴らに見つかるところだ。それでその水橋はお前に裏から帰るように仕向けたんだろう。渡辺たちに暴力を振るわれるのも覚悟の上でな」
「そんな・・・それじゃすぐに助けにいかないと!」


 慌てて正門に向かおうとする明日香の手を、守が掴んで引き止めた。
「ちょっと、何で止めるのよ!」
「落ち着けよ。お前が行ったら意味がないだろう。せっかく水橋がお前を守ろうと行動してるんだぞ? 守ろうとした女に守られるなんて、男としてそれほど情けない話はないと感じてしまうさ」
「それは桐沢の考えでしょう。それじゃ私も言ってあげるわ。私は、年下に守られるほど弱くないつもりよ!」
 明日香はそう守に叫ぶと、手を振り解いて行ってしまった。昨今は強気な女性が急増しているという話を耳にしたことがある。明日香を見ると、「可憐な女性像」はどこ吹く風か、男性にとって大和撫子という理想の女性は絶滅の危機に晒されているのかもしれない。昔の漫画で男が女を助けるというシーンがマンネリ化するほど存在した。しかし今では逆に女性の方が圧倒している。正面の廊下を走っていく明日香は、まさにその典型的な女性と言える。


「・・・守り甲斐のない女だな」
「明日香ちゃんは頑固だからね〜。まぁいざとなったら守が助ければいいんだよ」
「・・・オレが?」

 守は苦笑して頭を掻いた。渡辺は年下といっても、自分より背丈があり、ケンカ慣れもしている。それに加えて凶器を持っているとなると、水橋や明日香を救えるという確実な自信はない。それにここで問題を起こしてしまうと、受験にも大きく響いてしまうだろう。保身か、それとも良心をとるか、守の気持ちはグラグラと揺れていた。しかしすぐに溜息をついた。


「・・・はぁ、受験は諦めるか・・・」













「やめなさい!」
 明日香はそこに辿り着き、大声で彼らの行為を止めた。目の前には渡辺と、渡辺の仲間であろう男子が2人。そして・・・彼らの足元にはうずくまってしまっている水橋がいた。水橋はすでに暴力を振るわれてしまったらしく、腕や脚などに青アザがついている。それは全て・・・自分を守るために、自分の代わりに受けた傷・・・。あれは本来なら自分についていたはずの傷・・・。それが痛々しく明日香の目に飛び込んできた。
「あんたたち、何やってるの!」
 明日香に気付き、渡辺たちはこちらを振り返った。
「ん? おぉ、何だ・・・林がちゃんと来たじゃねぇか」
 渡辺は微笑しながら伏せている水橋に視線を移した。「おい水橋、お前さっき『先輩はこない。ボクが裏門から帰るように伝えた』と格好良く言ってたな。林を助けようと思ったんだろうが、残念だったな。そういうのを『無駄な努力』というんだよ」
「・・・ぅ・・・先輩・・・何で・・・?」
 水橋は傷ついた顔をあげた。「どうして・・・裏門から帰ってくれなかったんですか・・・?」
「嫌だったからよ」
「・・・え・・・」
「私は、人に守られるのも、人が傷つけられているのを見て見ぬフリするのも嫌なのよ。それがあなたみたいな年下なら尚更」
 そう言う明日香を見て、渡辺たちは笑った。
「ハハハ、それで1人でノコノコやってきた訳か。バカじゃねぇか? 『人に守られるのが嫌』って事は、覚悟できてるんだろうな」
 渡辺たちはゆっくりと明日香を囲い始めた。男の1人が明日香に手を伸ばした瞬間、何かがその手を弾いた。それは、傷ついた水橋だった。
「あぁ? 水橋、もうお前に用はねぇんだよ」
「・・・ボクも・・・嫌です・・・」
 水橋はポツリと呟いた。それは本当に小さな言葉だった。すぐ傍にいた明日香だからこそ、聞こえた言葉だったかもしれない。水橋が漏らした小さな言葉・・・。


「・・・先輩が傷つくのは・・・嫌です・・・」


 渡辺は明日香の壁のように正面に佇む水橋が気に食わないのか、歯を剥き出して懐から何かを抜き出した。
「オイ・・・どけ」
「・・・」
 水橋の目の前に、銀色に光るナイフが向けられた。その鋭利な輝きは、普通の者なら恐怖を覚えたかもしれない。水橋もその恐怖を味わってしまっているに違いない。しかし・・・水橋はそれでも首を横に振った。
「・・・嫌だ!」
「! ・・・このぉ・・・」
 渡辺の顔が真っ赤になり、ナイフを持った手を大きく振りかぶった。水橋は覚悟を決めて目を閉じ、明日香はそれを止めようと水橋に触れる。他の男たちは渡辺の行き過ぎた行為に驚き、目を見開いていた。それは本当に一瞬のことだった。


「・・・ビンゴ」

 サッカーボールが渡辺の振り上げる手に勢いよくぶつかった。
「くぅっ!」
 ナイフは渡辺の手から離れ、宙を飛ぶ。それは少し離れた場所に落ち、カラカラという金属音を響かせた。そこにいた者たち全員が一斉にボールが飛ばされた方向に目を向けた。そこには、苦笑している守がいた。
「誰だテメェは!?」
「同じ学校の先輩の顔くらい覚えとけよ。それより林、お節介だったかな?」
「・・・そうね。でもいいタイミングだったから、私と水橋クンにジュースを奢ってくれたらチャラにしてあげるわ」
「ハハ・・・そりゃどうも」
 新しくやってきた助っ人に渡辺たちが意識を向けている間に、明日香と水橋は少し離れた木々の下に移動していた。しかし渡辺は相変わらず笑っている。
「・・・それで、センパイ1人で何の用スかね? 早く帰ればケガせずに済むんですがね?」
「おうおう、オレ1人の登場じゃ全く動じないって感じだな」
 守は苦笑して「やれやれ」といったジェスチャーを向けた。「まぁ、無理もないか。オレはお前たちみたいにケンカは得意じゃないし、人数も違うからな」
「それじゃ、とっとと帰ってくれませんかねぇ?」
「それがそうもいかないな。林たちにジュースを買ってやらないといけないらしいからな。ま、そういう訳で帰るときは奴らと一緒じゃないとダメなんだ」
 守はそう言うと時計を見上げた。「それにオレも無謀なケンカはしない。そろそろ強力な助っ人がやってくる時間だ」
「あぁ? センコウでも呼んだか。オレたちがそれ位でビビるとでも思ってんのか?」
 渡辺たちは相変わらず卑下た笑いを浮かべている。最近の不良は、教師を恐がらないらしいが、渡辺たちも例に洩れずにその対応を向けている。
「いやいや、先生じゃないよ。それ以上に強力な助っ人さ」
「・・・ぁ? センコウ以上・・・?」
 渡辺が『助っ人』のイメージが湧かず、首を傾げていると・・・耳障りな音が小さく聞こえてきた。それは少しずつ少しずつこちらに向かってくる。「ウゥ〜ウゥ〜」という音が、はっきりと彼らの耳に届いた。
「・・・ま、まさかパトカー・・・か?」
 渡辺は慌てて周りを見渡した。渡辺の予想通り、これはパトカーのサイレン音だ。教師は恐くない不良中学生も、警察相手となると平常心ではいられないらしい。予想通り、強力な助っ人だ。
「そう、警察。・・・どうする? このままここにいたら、捕まるぜ?」
「・・・ちぃ!」
 守がそう言うと、渡辺たちは一目散に走り去っていった。それはもう驚くほど早かった。恐怖の存在が迫ってくると思うと、人というものはなかなかの運動能力を発揮できるようだ。そしてすぐに彼らの姿は見えなくなった。



「成功?」
「ああ、ご苦労さん」
 校舎の壁から、七海がヒョコッと顔を出した。七海の手には携帯が握られている。そしてその携帯から、先ほどから流れているサイレン音が流れていた。
「岩戸、もうそれ止めていいぞ」
「ん」
 七海は携帯のボタンを押し、サイレンを止めた。
「・・・それにしても、本当にパトカーかと思ったよ。今の携帯ってそんな本物みたいなサイレン音も出せるんだなぁ・・・」
「うん、お兄ちゃんがもしもの時のためにって作ってくれたんだ」
「・・・へー、そりゃすごいな」
 七海と守はそんなやり取りをして、木々の下で休んでいる明日香たちに駆け寄った。水橋は気が抜けたのか、気を失っている。駆け寄ってきた2人を見て、明日香は苦笑した。
「・・・一応、お礼言った方がいい?」
「ううん、そんなのいいよ。友達だからね」
 七海は満面の笑顔でそう答えた。「ね、守!」
「あ・・・まぁ、そうだな。それに林の携帯も勝手に使っちまったからな」
「私の携帯?」
「ああ、一応今後の保険にと思って、岩戸に一部始終撮影して保存しておいてもらったんだ。今日は大人しく引いたが、ほとぼりが冷めればまた同じことをやってくるはずだからって・・・」
「・・・だからって・・・桐沢が考えたんじゃないの?」
 明日香が首を傾げて聞くと、守は開き直って笑った。
「ハハハ、オレがこんな短い時間でこうした作戦を思いつくはずないだろう。全部岩戸の兄ちゃんに聞いたんだよ」
「うん、私がお兄ちゃんに電話したの」
 七海は嬉しそうに話した。あの後・・・明日香が走り去ってすぐ、七海は蒼太に連絡をとった。「どうしたらいいのかわからなくて・・・」と不安そうに話す七海に、蒼太はすぐに現状を理解して考えてくれた。それがこの作戦だった。以前七海の携帯に入れたサイレン音を使い、暴力の一部始終を撮った動画を残す。そしてその動画は蒼太がコンピュータを使い、より鮮明にし、すぐにでも匿名で学校へ送りつけるらしい。今ここで本当に警察を呼んでも良かったが、それではこの場にいる自分たちも、警察や教師に色々聞かれ、困る立場になってしまう。送りつける動画は、自分たちが分からないように編集してくれるらしい。蒼太は・・・受験生の自分たちのことも考えてくれたのだろう。
「あんな短い時間で・・・本当にすごい人だな」



 守は、夕空を見上げた。朱が空一杯に広がり、涼しい風を運んでくる。守は座り込んでいる友達の顔を見下ろした。七海は相変わらず笑顔で明日香の前に座り、明日香は優しく水橋の頬を撫で、「ありがとう」と呟いていた・・・。






『夕空の下で』 完
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