『水橋の決断』

 その日はいつもと違った。
授業後の休憩時間、いつも勉強に励んでいた明日香だったが、今日は何か考え事をしていて参考書すら開いていない。七海はそれを見て「もしや」と笑みを浮かべた。
「ね、明日香ちゃん」
 七海に呼ばれ、明日香は我に返ったように慌てて振り向いた。
「な、何? どうかした?」
「うん、何か明日香ちゃん変だな〜って思って。悩み事?」
 念のために聞いたが、七海は明日香の悩みの原因は理解しているような気がした。恐らく、あの後輩のことでも考えているのだろう。明日香は自分のことを鈍感扱いしているが、自分がどれだけ敏感か思い知らせてあげよう。
「もしかして、あの後輩クンのこと?」
 七海はニコッと笑って聞いてみた。その問いを聞き、明日香は笑った。
「ち、違うわよ! 別に水橋クンのことなんて考えてないわよ」
 明日香はそう否定するが、その慌てぶりが七海の予想を肯定する結果となった。それを聞き七海はニコニコと笑っている。
「私、水橋クンのことなんて聞いてないよ? 後輩クンって言っただけだもん。やっぱり明日香ちゃん、その子のこと考えてたんだね〜」
「だ・・・だからそれは・・・違うのよ。ホラ、そんなことより勉強しないとね」
 そう話を終えると、明日香は机から参考書を取り出して苦笑しながら勉強を始めた。その様子を見て、七海はゆっくりと立ち上がって廊下へと出て行った。
「ターゲットの名前は水橋クン。彼の素性を探ってください。どうぞー」
「・・・了解」
 廊下で立っている守は肩を落としながら肯いた。「後輩の水橋・・・ね。ま、名前さえわかれば何とかなるか。それより、こうして手伝ってるんだ。何か報酬でもあんのか?」
 溜息をつく守を見て、七海は苦笑した。
「そうやって見返り目当てって格好悪いよ。明日香ちゃんの一大事なんだから、無償に決まってるじゃない」
「だと思ったよ」
 守は再度溜息をつくと、その廊下を歩いていった。その後姿に七海は「いい情報期待してるね」と見送った。

 友人や後輩に尋ね、昼食後には噂の水橋の居場所が判明した。一学年下で、2年4組に彼はいた。
「で、どんなヤツなんだ?」
 守は自分と同じサッカー部の後輩を廊下に呼び出して聞いた。夏が終わって活動には参加していないが、暇を見つけては練習を手伝ってやっている。そのせいか他の3年に比べて自分は後輩にとって話しやすい存在となっているようだ。後輩は理由を聞くと楽しそうに話し始めた。
「水橋ですか〜・・・。一言で言うと大人しいヤツですね。勉強もある程度できるし、あの幼い容姿のせいか女子にも人気があるんですよ」
「ふ〜ん・・・幼い容姿で人気があってもな・・・」
「そうですよね。もっと男らしくないといけないと思うんですがね。それで2年に渡辺っていうやつがいるんですが、そいつが水橋を目の敵にしてるみたいなんですよ。女子に人気の水橋が気に入らないようですね」
 2年の渡辺という名前には聞き覚えがある。他にも渡辺というヤツはいるかもしれないが、一番有名なのは渡辺大樹というヤンチャな後輩だ。思春期特有の反抗期まっしぐらな彼は、学校でも度々問題を起こしている。少し前に体育館の窓ガラスが割れているという事件があったが、その犯人も渡辺という噂だ。
「渡辺か・・・それはちょっと心配だな」
「そうですね・・・渡辺を中心にちょっとした不良グループが出来上がってしまっているので、もし目をつけられているのだとしたら危ないかもしれませんね。これ・・・先生に言っておいた方がいいと思いますか?」
「いや・・・何か起きてからじゃ遅いかもしれないが、まだ大事にしない方がいいと思う。オレがちょっと様子見ておくよ」
 守はそう後輩に告げて礼をし、自分の教室へ向かった。しかしその途中、その渡辺と遭遇した。子分と思われる2人を連れ、校舎裏へと向かっている。そしてその後ろを背の小さな男子がゆっくりとついていっていた。その男子は明らかに気の小さな感じが滲み出ている。
「もしかしてイジメか?」と思い、守はゆっくりとその後をつけていった。
「水橋、それであいつを呼び出すように伝えたのか?」
 校舎裏につくなり、渡辺は背の小さな男にそう怒鳴った。やっぱりあれが例の『水橋』だ。そう守は確信して影からその様子を観察していた。
「・・・まだ・・・」
 水橋は小さな声でそう呟く。それを聞き、渡辺は顔を歪ませている。それは明らかな怒りの表情だった。その瞬間、渡辺は思いっきり水橋の顔面を殴った。その勢いで水橋は後ろに飛ばされた。
「・・・ぅ・・・」
 水橋は顔を押さえてうずくまっている。その様子を見て守は顔を押さえた。見ているほうも、とても痛く感じるほどの手ごたえだった。
「水橋ー・・・言ったよな? 3年の林を呼び出せってよぉ。同じ陸上部のお前ならあいつもノコノコやってくるんだ。お前はただ呼び出せばいいんだよ!」
「・・・でも・・・」
 立ち上がろうとする水橋に対し、渡辺は腹部を蹴り上げた。「うぁ・・・!」
 水橋は苦しそうに咳き込んでいる。それを見て、渡辺は嬉しそうに座り込んだ。
「林はなぁ・・・オレをバカにしたんだ。女だからって容赦しねぇ! 痛い目に遭わせてやる!」
 渡辺は笑いながら懐からナイフを取り出した。「こいつでやられたくないだろう? お前はただ言うとおりにすればいいんだよ」
 ナイフが水橋の頬に触れる。その恐怖からか、水橋は顔を引きつらせている。それを見て、守は歯を剥き出した。噂には聞いていたが、とんだヤンチャ振りだ。
「・・・許せないね」
「え?」
 守が後ろを振り向くと、そこには七海が両腕を組んで立ちすくんでいる。いつの間に背後に忍び寄ったのかわからなかったが、守は慌てて七海の口を押さえた。
「静かに」
 守は小さな声で七海は制した。
「守、すぐに助けてあげないと」
「わかってる。だけどあいつナイフ持ってるんだぜ? このまま突っ込むのは無謀だよ」
 守は再び彼らの姿を捉えた。話がついたのか、渡辺は子分をつれて笑いながら去っていった。その場に残された水橋は、殴られた箇所を押さえてゆっくりと起き上がった。遠目で分かりにくいが、とても悔しそうな表情を浮かべているように見える。・・・無理もないかもしれない。
「・・・私があの人に一言注意してくるよ。暴力はいけないよ、絶対」
 立ち上がる七海を、守は慌てて止める。
「バカ、待てよ。言って素直に聞くような相手なら苦労はしないさ。お前が行っても水橋の二の舞になる」
「それじゃどうするの?」
「・・・水橋次第だな」
 守はそう呟いて起き上がった水橋に視線を移した。「まずは、あいつが林に対してどう動くかだ」

「そ、そんな訳ないわよね」
 明日香は一人でそう納得していた。水橋が以前あのような対応をしていたからと言って、告白とは限らない。自分がそう勘違いしているだけという可能性の方がずっと高いのではないか。明日香はそう結論づけて肯いている。
 時刻は放課後になり、明日香は帰り支度を整えた。
「・・・そういえば」
 明日香は隣の席を見つめた。いつものんびりとしている七海の姿はとうにない。授業が終わると慌てて守と一緒に廊下へ飛び出して行った。七海と守の組み合わせは正直以外だが、どちらかと言うと七海のペースに巻き込まれているのが現状だろう。守がさぞ苦労していそうで、明日香は苦笑した。
 カバンを手にし、明日香は立ち上がった。
 気がついてみると、今日は一日中水橋のことを考えていたような気がする。七海に「勉強」「受験」と口をすっぱくして言っている自分が、何という体たらくだろうか。「お兄ちゃんお兄ちゃん」と妄想している七海のことを言えないなと、明日香は笑ってしまった。
「・・・先輩・・・」
 教室を出ると、そこには今日一日自分の思考を染め上げていた水橋がいた。
 彼の姿を見て、明日香は胸の鼓動が早まるのを感じた。

『水橋の決断』 完
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