『暴走ナナ』

 勉強を開始して、2時間が経った。
集中することに慣れていない人物なら、そろそろ禁断症状が出る頃である。明日香は蒼太に質問をしたりして順調に問題集を解いているのだが、要注意人物の方はさっきから手が全く動いていない。蒼太は質問に答える時以外は小説を読んでいるが、彼女はずっとその本に視線を落とす蒼太の顔ばかり見つめている。
 蒼太がトイレに行ったのを見計らって、明日香は隣でポーっとしている七海に向き合った。
「ナナ、気持ちは分かるけど、ちょっとは集中しようよ」
「集中はしてるもん」
「はいはい、ずっと先輩の顔にね。先輩だってせっかくこうして家庭教師をかって出てくれたんだから、もっと真剣に勉強しなさいよ」
「ん・・・」
 七海は明日香に怒られ、視線を落とした。
「・・・今は大切なことは何?」
 明日香は「勉強すること」という言葉を待ったのだが、七海の口からは予想もしていなかった言葉が飛び出した。
「お兄ちゃんがトイレに行っている間に、部屋を観察すること」
 七海はそう言うといきなり立ち上がった。「うん、やっぱりそうだよね。今がチャンスだよね」
「え? え?」
 明日香は意味がわからず頭の上にクエスチョンを浮かべた。しかしそんな明日香を気にも留めず、七海は蒼太の机の前に近づき、机の上周辺を眺めている。それを見て、明日香はようやく目の前の七海が「ちょっと暴走状態」にあることに気がついた。
「まずは・・・机の中を・・・」
「やめなさい!」
 机の引き出しに手を伸ばした七海を何とか制し、明日香は元の場所に座らせた。「ほら、こんなことすると先輩に嫌われちゃうよ?」
「でも・・・バレなきゃ大丈夫だと思うよ」
「大丈夫じゃない! それは人としてそれはやっちゃいけないことでしょ」
「明日香ちゃんのケチ」
「はぁ・・・何とでも言いなさい」
 明日香はため息をついて再びペンを手にした。七海はというと、口を尖らせてブーブー言っている。そんなやり取りをしていると、蒼太が部屋に戻ってきた。
「勉強、進んでるかな?」
「うん・・・大丈夫」
 七海は蒼太に向き合って肯いた。「私は大丈夫だから・・・お兄ちゃんは読書の続きをしててもいいよ」
(いやいやいや・・・)
 明日香は心の中で突っ込んだ。あんた、先輩の前じゃ態度違いすぎ。それに、勉強も大丈夫じゃないし。
 しかし、明日香の心の声は当然蒼太に届くことは無く、彼はニコリと笑っている。
「それじゃ、そろそろ休憩に入ってケーキでも食べようか。あ、林さんの分もあるから安心してね」
「あ・・・そんな、私はいいですよ。急に押しかけたし、勉強を見てもらえるだけで十分です」
「遠慮することはないよ。いいから食べていってよ」
 蒼太はそう言って再び部屋を出て行った。「優しいな」と明日香は微笑んだ。とても優しくて、勉強もできる。そして仕事ができるという正に完璧超人を前にすれば、七海でなくても憧れてしまう。それに比べ、超人に憧れているこの子はどうだろうか。隣で「えへへ〜」とにやけている七海を見ると、どう考えても不釣合いだ。明日香はこのダメ娘を顔を見て、ため息をついた。

 蒼太がケーキを机に置き、蓋を開けた。中には様々な種類のケーキが入っている。定番のイチゴのショートにチーズケーキから、細かく刻まれたリンゴが乗る赤玉のアップルパイ。カシスケーキにミニ・ブッシュ・ド・ノエル。見ているだけで喉が鳴る。
 その中身に心奪われる女の子2人に、蒼太は苦笑して「好きなの取りなよ」と勧めた。
「・・・いいの?」
 七海は顔を上げ、そっと蒼太の腕に手を伸ばす。それを見て明日香は慌てて伸びる手を押さえ、「ケーキの話!」と防いだ。確かに好きなものを取っていいと言われたが、好きな人をもらおうとするとはなかなかの暴走だ。呆れを通り越してもはや感心する。
 見事防がれた七海は、肩を落としてイチゴのショートを皿に乗せた。それを見て、蒼太は微笑ましそうに見つめている。
「やっぱり、それにすると思ったよ。七海は小さい頃からイチゴのショートが好きだったからね」
「え・・・うん」
 自分のことを見ていてもらえて嬉しいのか、七海は俯いて頬を染めている。ここまではっきりと感情が表情に現れる子も珍しい。
「幼稚園の頃だったかな・・・ほら、覚えてる? 確か大きくなったらケーキ屋さんと結婚するって―」
「先輩!」
 蒼太が「結婚」という単語を言おうとした瞬間、明日香が大きな声を上げて立ち上がった。「私、このケーキもらいます!」
 七海の前でそういう単語を言おうものなら、再び暴走する可能性が高い。それを防がなければならない自分の身にもなってほしい。ただでさえ、この場所は七海にとって臨界点ギリギリなのだ。そのためほんの僅かな揺さぶりで暴走する。
「ど・・・どうぞ」
 目を見開いている明日香を前にし、蒼太はシドロモドロに答えた。その明日香の姿を見て、七海もクスクスと笑っている。
「本当、明日香ちゃんは食いしん坊だね」
「あんた・・・ね!」
 明日香は苦笑いを浮かべてケーキを皿に乗せる。
(全く! 一体誰のせいで私がこんなに頑張っていると思ってるの! ・・・まぁ、いいわ。取り合えずナナの暴走を止められたし、それで良しとしましょう。それよりも、せっかく先輩がくれたのだから感謝していただこう・・・)
 手を合わせてフォークを取ると、蒼太が呆然としているのに気付いた。まさか・・・と視線を横に向けると、案の定七海が何かをやらかしている。
「・・・ナナ、何やってるの?」
「・・・フォークが重くて持てない」
 七海は小さなフォークをまるで鉄レンガでも持つかのように力んで摘んでいる。だがすぐに力尽きたのか机にチャリンと落とす。
(・・・これは何? もしかしてもしかしなくても・・・先輩の前で可憐な女の子を演じてる?)
 これはいくらなんでもやりすぎだろう。しかし七海はお構いなしに続けている。
「・・・フォーク持てないから・・・お兄ちゃんに・・・」
「よし! 私が食べさせてやるよ!」
 明日香は苦笑して七海のフォークを取り上げた。
「え・・・私は・・・明日香ちゃんじゃなくて」
「ほらほら、遠慮しない! ほら、あ〜ん」
「・・・あ〜ん」
 ケーキを一口食したものの、七海は恨めしそうな顔でこちらをじーと睨んでいる。傍目から見れば、さぞ仲の良い2人に見えるのだろう。それを見て、蒼太は「本当に仲がいいね」と微笑んだ。それを聞き、明日香も相槌を打った。
(・・・私、挫けそう・・・)

「それじゃ、今日はこれ位で終わろうか」
 午後7時。外はまだ少し明るいが、蒼太は立ち上がって背伸びをした。「それにしても、林さんは飲み込みが早いね。これなら受験も大丈夫そうだね」
「いえ、私なんてまだまだですよ。それに油断は禁物です」
 明日香は苦笑して答えた。
(・・・ようやく終わった。この暴走力場から離れることができるんだ。はぁー・・・疲れたぁ)
 明日香を疲れさせた原因の七海はどうしているかというと、疲れ果てて眠ってしまっている。それを見て、明日香は「アハハ」と力なく笑った。
(・・・アンタは私の苦労も知らずにぐっすりと寝息を立てて・・・早く休みたいのは私の方よ!)
「七海は・・・寝ちゃったね」
 蒼太は立ち上がってタオルケットを持ち出し、それを横になっている七海にかけてやった。すると七海はにやけながら「ンフフ・・・お兄ちゃん・・・」と寝言を発した。
(・・・一体どんな夢を見ているんだか、いい気なもんね・・・。先輩がタオルケットかけてくれたけど、そろそろナナを起こして帰らないとね)
「先輩、私たちそろそろ帰りますね」
「ん? ああ、わかった」
 そう答えて、気持ちよく眠っている七海を見て頭を掻いた「あ、七海は気持ちよく眠ってるし、目が覚めたらボクが家まで送っていくよ」
「あ、そうですか」
 明日香はニッコリと笑顔で答える。
(・・・よかった、これでようやく帰れる。今日私がいなかったら、絶対ナナは暴走してたわね。先輩とナナを二人きりにしちゃいけないってつくづく思ったわ。ナナは先輩が家まで送ってくれるみたいだし、私は早く帰って休もう・・・ん?)
 明日香はそこでようやく七海が蒼太と2人きりになってしまうという現状に気付いた。
「先輩、それはヤバイです!」
「え・・・ヤバイ?」
「はい! とても、非常に、猛烈にヤバイです。そういう訳なのでナナは起こして私が連れて帰りますね」
 万が一2人きりにすると、間違いなく七海は暴走するだろう。一体どんな状況になるか予想はできないが、あまり好ましくないことは確かだ。
「え・・・でもこんなに気持ちよく寝てるんだし、寝かせておいた方が・・・」
「いえ、これは先輩のためなんです」
「・・・?」
 明日香はそう断言して、七海の身体を揺すった。
「ほら、起きなさい。帰るよ」
 明日香に揺すられ、七海はゆっくりと身体を起こした。「よし、すぐに帰る準備しなさい」
「・・・うん」
 明日香と七海はカバンを持ち、蒼太に玄関先まで見送ってもらった。
「それじゃ、先輩。今日は本当に有難うございました」
「・・・お兄ちゃん、ありがとう・・・」
 2人は蒼太に向かって軽く頭を下げ、礼を述べた。それを聞き、蒼太は照れながら苦笑した。
「いや、ボクにできることなら何でも相談しにおいでよ。勉強もまた見てあげるからさ」
「え・・・それじゃ・・・」
「はい! それじゃまた今度お願いします。ナナ、行くよ!」
 明日香は蒼太に近づこうとする七海の手を取り、急いで走り去った。背後で蒼太の「気をつけて」という言葉が聞こえた。
しばらく走り、蒼太の家が遠くなる。そこでようやくスピードを落とした。
「ナナ、さっき先輩に何か言おうとしたでしょ?」
 視線を落とす七海はコクリと肯いた。
「・・・お兄ちゃんが私のモノになるにはどうすればいいのかな・・・って」
「・・・察しはついてたわ」
 明日香は呆れて吐息をついた。「そうだ、今日のお礼の今度先輩に何か持っていった方がいいわよね? でもコーヒーは今日持っていったし・・・ね、ナナ。先輩って他に好きなものないかな?」
「お兄ちゃんにお礼? ・・・あ、それじゃお礼に私をプレゼントとか」
「さ、帰りましょう」
 明日香は何も聞こえなかったかのように歩き出した。『岩戸七海』というそんな不良品を差し上げれるはずもない。こんなおかしな子をもらってくれる物好きがいるのなら、お歳暮でもつけてプレゼントしたいくらいだ。
 夜空を見上げると、たくさんの星空が輝いている。
 一筋の光が、その夜空をキラリと流れたのを見て、2人は微笑んだ。

『暴走ナナ』 完
  NEXT→

inserted by FC2 system