『勉強in蒼太部屋』

 何で、そんな泣いているの?
 何で、そんなに哀しそうな顔をしているの?
私じゃ、あなたを慰めることはできないの?

 七海は目を覚まし、起き上がった。
カーテン越しから光が漏れ、小鳥がチュンチュンと鳴いている。七海は欠伸をしてベッドから降り、カーテンを開け、窓を開けた。
「今日も、絶好のお兄ちゃんと会う日和だね」
 意味はわからないが、七海はその良き天気を見上げて嬉しそうに背伸びをしている。「さ、着替えないと」
 窓を閉め、ピンクのパジャマを脱いでタンスを開ける。そして学校指定のジャージを着て、その上に制服を羽織る。中学・高校はこうして服を指定されているから面白くない。たまにはオシャレな服を着て、お兄ちゃんに会いに行きたいものだ。
 部屋を出て居間へ降りると、すでに父は出勤済み。母は七海の分の朝食をテーブルに置き、一息ついていた。
「お母さん、おはよう」
「おはよう」
 母は起きてきた娘の顔を見て、お茶を一口飲んでそれを置いた。「七海、勉強の方はどう? 高校、受かりそうかしら」
「わかんない」
 七海は朝食をとりながら淡々と答える。母はいつもボーっとしている娘を心配しているのだが、「母の心、子知らず」とはよく言ったものだ。その娘の反応を見て、母はため息をついた。
「ナナ、もっと緊迫感もちなさいよ。お向かいの鳥飼さんとこの娘さん、去年景応高校に受かったのよ? あなたも頑張ってそういういい高校にいけるようにしないと」
「ごちそうさま!」
 七海は母の説教の途中で立ち上がり、「人は人、私は私なの」ともっともらしいことを言って居間を出て行った。すぐに洗面所へ行き、顔を洗い、歯を磨く。そして多少髪を整えて家を飛び出していった。
「行って来ます!」
 しばらく走ると、憧れの人が表に出てきていた。「あ・・・お兄ちゃん」
 そう、伏見蒼太だ。彼は欠伸をしながらポストに届いている新聞を取り、その場で軽く記事を眺めている。そして七海に気付いて手を振った。
「や、おはよう」
「・・・おはよう。お兄ちゃん、今日は・・・大学ないの?」
「うん。今日は休講でね、大学に行っても受ける講義がないんだよ」
 蒼太は嬉しそうに語っている。
「・・・それじゃ、バイト?」
「ううん。今日は休みなんだ。久しぶりに羽を休めれるよ」
 それを聞き、七海は蒼太とは反対に落ち込んだ。何せ、学校帰りの楽しみがなくなってしまったのだ。今日は何を楽しみに下校すればいいのだろうか、などと考えてしまっている。
「そっか・・・」
 そのガッカリした表情を見て、蒼太は首を傾げている。
「? ・・・どうかしたのかな?」
 蒼太はそっと七海の顔を覗き込んで聞いたが、勝手に肯いている。「ああ、そうか。受験勉強で疲れているんだね?」
「え・・・」
「わかるよ。ボクの時もこの時期は大変だったからね」
 確かに同じ受験生という名目にあるかもしれないが、七海と蒼太では偏差値も違えば狙っている高校のレベルも違う。両者の「大変」という言葉の内容は全く異なっている。
「勉強ははかどってる?」
「・・・あまり」
 七海は俯いて答えた。内心では、勉強の出来ない子だと思われてしまっただろうかなどと焦っている。嘘でも「完璧です」と言ったほうが良かったのだろうか。しかし、これは良い結果を招くこととなった。
「・・・それじゃ、今日家庭教師をしてあげようか」
「え?」
「今日はボク、一日休みだからね。七海さえよければ学校帰りにおいでよ。勉強でわからないこととか教えてあげる。大丈夫、ちゃんと家には連絡しておくし、遅くならないうちに送ってあげるからさ」
 その言葉を聞き、七海は嬉しさのあまり飛んでいきそうになった。「ぜひお願いします!」と内心では思っているが、その嬉しさを堪え、蒼太の顔を見上げた。
「・・・でも、お兄ちゃんせっかくの休みなのに・・・。羽伸ばせなくなっちゃうよ・・・?」
 確かにその申し出は嬉しいが、本当この上なく嬉しいが、肝心の蒼太がつらい思いをするなら意味がない。蒼太を心配するような視線を向けると、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「大丈夫、そんなこと気にしないよ。今はボクのことより、七海の受験の方が切実さ。・・・どうする? 迷惑だったら謝るけど」
「そんなこと! ・・・ないです・・・」
 表情が沈む蒼太を見て、七海は勢いよく答えた瞬間、素の自分がでたことに気がついて再び俯いて答えた。それを聞き、蒼太は嬉しそうにニコニコと笑っている。
「よし、それじゃあ夕方待ってるね。休憩の時に食べるケーキと飲み物も準備しておくよ」
「あ・・・そんなことまで・・・」
 七海は「お兄ちゃんと一緒にいれるだけでいい」と言いそうになり、慌てて口を押さえた。
「さて、そろそろ学校に行った方がいいんじゃないかな?」
「あ、うん・・・。それじゃ、またねお兄ちゃん」
 七海は軽く手を振り、蒼太と分かれて走っていった。

 今日はいつもと違った。
最初にそれに気付いたのは朝、この子が教室に入ってきてから。いつにもましてぽーっとしているし、時折顔を朱色に染めている。
「何かあった?」
 昼休みになり、隣で未だにポーっとしている七海に明日香は聞いた。
「えっとね・・・今日朝学校にくる途中で、お兄ちゃんに会ったの・・・」
 またいつもの妄想かと思ったがどうやらそうではないらしい。話を聞くと、家庭教師をかってでてきてくれたそうだ。
「そう、それは良かったじゃん。ナナも先輩と一緒なら勉強が・・・はかどるのかしら?」
 明日香は不安になって語尾を弱めた。確かに蒼太のことを考えて集中力を発揮している場面は何度か見たことがあるが、今度は状況が違う。妄想ではなく、リアルの蒼太が彼女の傍で教えてくれるというのだ。一体どんな状態になるのか想像もできない。果たして、普段通りに集中力を発揮するのか、それとも恥ずかしくて何もできないのかもしれない。いや、待て。もしかしたら暴走する危険性もないではない。
「・・・ナナ、暴走・・・しないようにね?」
「暴走?」
「いや、何でもない。せっかく先輩が勉強を教えてくれるんだから、変なこと考えないで真面目に取り組みなさいよ?」
「うん、真面目にお兄ちゃんのこと考える」
「そっちじゃないわよ!」
 ダメだ。これでは自分自身が不安に襲われて、胃に穴が開きそうだ。少し頭を抱えて考え、一つの答えに行き着いた。「・・・私も行くわ」
「え・・・」
 明日香のその言葉に、七海は安堵とも落ち込みともとれる表情を浮かべる。
「ナナがちゃんと勉強できるように、私もついていくって言ったの」
「まさか・・・明日香ちゃんもお兄ちゃんのことを・・・?」
「ち・が・う!」
 明日香はため息をついた。全く、頭の中が年中桜色の七海には困ったものだ。しかし性格や勘違いはともかく、こうして人をこれだけ想うことができるというのは一種の才能のように思える。受験勉強の真っ只中の今の時期、そういうことを振り返ることなく、そう考える。それは自分にはない七海の強みだ。
 授業が終わり、七海と明日香はすぐにカバンを持ち、教室から出た。
「途中で私の家に寄って」という明日香の頼みを聞き、一度そちらに寄り道することになった。明日香はすぐに着替えて家を出てきた。
「・・・何で着替えたの?」
「え・・・だっていつまでも制服じゃ窮屈でしょ」
「・・・やっぱり、その可愛い服をお兄ちゃんに見せるために・・・」
「ち! が! う! 着替えたのはついでよ。財布を持ってきたの。頼みもしないのに家に押しかけるんだから、何かお詫びの品でも買っていこうかなと思ってね。先輩はケーキや飲み物を用意しておくって言ってたんでしょ? それじゃ私は・・・お菓子とかでも持っていこうかな」
 明日香は近くにあるコンビニに寄り、お菓子を数点とコーヒー豆を購入し、店から出てきた。
「さぁ、行きましょう」
 2人はそのまま真っ直ぐ蒼太の自宅に向かい、インターホンを押した。来るのを待ちわびていたのか、すぐに蒼太が玄関を開けてやってきた。
「や、よく来たね」
 蒼太は2人の前まで歩み寄り、明日香に向かって微笑んだ。「林さんも一緒に来てくれたんだ」
「あ、はい。呼ばれてないのについてきてしまって・・・ごめんなさい」
「いや、気にしなくていいよ。林さんも勉強で大変なんだろう? わからないことがあったらいつでも聞きにおいで」
「ありがとうございます。あの、それでこれ・・・途中で買ってきたんです」
 明日香は手に持っている袋を蒼太に渡した。「お菓子と、コーヒー豆です。確か先輩、コーヒーが好きだと聞いていたので・・・。インスタントで悪いんですけど」
「いや、ありがとう。家に残っている豆も少なくなってきて、そろそろ買いに行こうかと思ってたんだ。助かるよ」
「お兄ちゃん」
 蒼太と明日香の会話を、それまで面白くないように傍観していた七海が遮った。「勉強」
「あ、ああ・・・。わかってるよ。さ、どうぞ」
 蒼太は苦笑して2人の来客を家へ招き入れた。蒼太の部屋に入ると、七海はしきりに周りを見渡している。明日香はそれを見てため息をついた。好きな人の部屋に入ったのだ。そう観察したくなる気持ちもわかるが、始めからこう暴走気味では先が思いやられる。
「ナナ、おいで」
 明日香は七海の手を掴み、無理やり座らせた。明日香の隣に七海。そして正面に蒼太というポジションである。明日香はさっそくカバンから教科書や参考書を取り出した。
「うん、それじゃさっそく取り掛かろうか。分からない問題があったらいつでも聞いてね」
 蒼太にそう言われ、明日香は肯いた。
「ありがとうございます。でも、最初は自分の力だけで頑張ってみます」
 明日香はそう言い、すぐに問題集を開いてとりかかった。
 ・・・肝心の七海は、というと・・・。
未だに部屋の中を見渡している。
「七海、勉強はしないのかい?」
「あ・・・する」
 蒼太に促され、七海は仕方なくカバンから問題集を取り出した。そして問題を読んですぐに挫折した。それを見て、蒼太が覗き込む。
「ああ、七海は数学が苦手かな? 3平方の定理に2次関数か・・・。もう少し自分の力で頑張れるかな?」
「・・・頑張れる」
 七海はそう息巻いて再び取り掛かった。その様子を見て、明日香は安心した。どうやら自分の不安は取り越し苦労だったのかもしれない。この必死で勉強に勤しんでいる七海の姿を見てそう思った。
 しかし、それも長くは続かなかった。
この後、七海が暴走するとは思ってもいなかったのだ。



『勉強in蒼太部屋』 完
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