『犯罪者A』

 マシューは信じられない光景を目の当たりにしていた。
イーサンと呼ばれた男はすさまじいスピードで術式を完了していく。まだ1時間も経過していないのに、すでに3つの臓器の治療を終えていた。その術式内容にも、マシューは驚いた。それは、医学の根本を覆すものだった。こんなこと、誰も思いつかないだろう。いや、思いついてもあまりの難易度に不可能と瞬時に理解する。それを、目の前のこの男は難なくこなしていく。
「おい、何ボーとしてんだ。すぐにこの臓器を結合させる。手を動かせ!」
「は、はい!」
 マシューはまるで研修医のように返事をした。そう、この場では「天才」などと称された自分がそういうレベルになってしまっているのだ。
「おい、部位が見えん! とっとと血液を吸引しろ!」
 イーサンに怒鳴られ、助手が慌てて血液を吸引タンクに溜める。「そうだ。そのタンクに血液が溜まったらすぐに分離機にかけて再利用できるようにしろ。おい、麻酔医! 数値を教えろ!」
 その手術の様子を見て、ルネはアルマと顔を見合わせた。
「これなら、うまくいくかもしれないですね」
「・・・そうだな。オレは少しあいつを見直した」
 アルマがそう言った瞬間、ルネは急な頭痛に襲われて頭を抱えた。「ルネ、どうかしたのか?」
「・・・わからない」
 何だろう。この急な頭痛・・・。「・・・何でもありません。気のせいだと思います」
 ルネは冷や汗をかき、額を拭った。

 再び銃弾が九条を襲った。
男が放った銃弾は九条の左肩に命中し、九条は前のめりに再び倒れた。
「く・・・!」
 わかってはいる。絶望的な状況であることは。九条は再び男を睨んだ。男は九条が立ち上がるのを待っているかのように不気味な笑みを浮かべている。九条は必死で頭を働かせた。
 銃弾をかわすことは不可能。銃口の向きからある程度は予測できるが、こちらが動けばあちらも狙いをずらす。僅かに手元を動かす相手と、身体全体を動かす自分とでは、どちらが不利かなど火を見るより明らかだ。
 相手が使っている銃の種類。高とその部下もそうだったが、中国ではトカレフという拳銃が主流となっている。つまり、最大装弾数は8発。今奴は2発撃ったから残りは6発だが、その装弾数は期待できない。高の時は予め準備をし、空の拳銃を手にするように仕向けたが、今回は突然のイレギュラーだ。相手の持っている拳銃が1丁とも限らないし、こちらが何か策をすでに弄している訳でもない。
 警察はどうだろうか。この突然の発砲者に対して、どう応じるのか。横目で彼らを覗いたが、戸惑っているように映る。自分も犯罪者なら、奴も犯罪者。警察もどう対応すれば良いのか混乱しているのだろう。このまま時間を稼げば警察が何らかの行動をとるかもしれないが、その前に男が痺れを切らしてトドメを指すだろう。
 九条は周りの地形を瞬時に見渡した。この病院の屋上は、日本のようにフェンスで仕切られていない。元々立ち入り禁止となっていたので落下防止のための柵が張られていないようだ。
膝を支え、ゆっくりと立ち上がる。
 この大病院は8階建てとなっている。下まではかなりの高さだ。落ちてはきっと助からない。
「今の状態で・・・できること・・・」
 それは、奴の動揺を誘うこと。人は、目の前の人物が不可解な行動をとると、呆気にとられるものだ。例えば銃を向けた相手が急に笑い出したら? もしその相手が急に死を望むように腕を広げたら? 本人はきっと、一瞬だとしても戸惑うだろう。
「クロード」
 九条は上着を外して立ち上がり、屋上の僅かな堀に足を伸ばした。直接足元を見ると、眼が眩みそうだ。「これから何があっても、クロードは何も手を出さないでくれ。これで・・・終わるはずだから・・・」
 九条はそう言うと、両手を広げ、ふっと跳んだ。
「瞬!」
 九条が屋上から跳んだのを見て、拳銃を向けていた男もしばらく何事かと呆然としていたが、眉を潜めて慌てて眼下を見下ろした。まさか、この高さで飛び降りるとは思いもしなかったのだ。殺される前に自分で死ぬ。それが、九条がこの男に対して動揺を誘う唯一の方法だったのだ。そしてその策は見事成功し、男はこれ以上ないほど動揺している。
・・・しかし、どこにも九条の姿はなかった。男は目を擦り、何度も九条が飛び降りた先を探したが、どこにも死体がない。
「是怎樣的事(どういうことだ)?」
 男はそこでようやく気付いた。病棟から伸びている国旗を掲げている一本のポール。そこに、先ほど九条が着ていた上着が絡まっている。しかし、あるのは上着だけで、本人はいない。
「・・・消失了(きえた)?」
 そんなバカなことがあるはずない。人は消えない。人は空を自在に飛ぶことはできない。ならば九条はどこへ行ってしまったのか。
―そして、その答えは次の瞬間に理解した。
「無・・・法相信(そんなバカな)!」
 いつの間にか、九条が背後から迫ってきていた。男は驚いて拳銃を向けたが、拳銃を向けるよりも早く、九条の蹴りが男の拳銃を弾き飛ばした。
 この時点で、既に男は負けていた。既に男に次の行動を考える力はない。飛び降りたはずの九条が、背後に迫っているという非現実的な現象を目の当たりにしてしまい、思考回路が混乱してしまっている。男の頭の中では「なぜ? なぜ?」という言葉が何度も反芻されているのだろう。拳銃の飛んでいく先を眼で追っている男を見て、九条は微笑を浮かべた。
 拳銃が飛んでいく方向とは逆の死角に、瞬時に身体を潜り込ませた。そして自分の脚を男の前に差し出し、残った右手で男の襟元を掴んで思い切り引っ張った。すると男は九条に脚をかけられ、重心を崩し、見事に宙を舞った。そして、男は勢いよくそのビルの屋上に叩きつけられた。
「! ・・・かぁ!」
 男は背中を強打し、口をパクパクと頻繁に開けている。どうやら背中を打った痛みでうまく呼吸ができず、声も出せないようだ。それを見ればわかる。男はもう、しばらく立つこともできそうにない。地面がこういった固いコンクリートの場合、柔道技は十分有効なものなんだなと九条はため息ををついて苦笑した。中学の時は打撃専門の空手を習っていたが、高校で入部した少林寺拳法部というマイナーな活動も結構役立った。少林寺は打撃、投げ、関節技、寝技と揃っている。型として覚えてはいたが、こうも上手くはまるとは思わなかった。
「為・・・何(な・・・ぜだ)!」
 男はようやく声を発した。しかし、それでもまだしばらくは立ち上がることもできないだろう。「為・・・什麼(ど・・・どうして)背後に・・・」
 男は信じられなかっただろう。何せ、屋上から飛び降りた九条がいきなり背後から現れたのだ。九条が起こした行動の死角に入っていたこの男には、九条が瞬間移動でもしたかのように錯覚したかもしれない。人は消えない。人は飛べない。それはこの世界では至極当然な常識だ。しかし、九条の行動を見ていた警察やリポーター、カメラマンや野次馬はその一部始終を見ていた。しかしそれでも、信じられない光景だっただろう。
 九条はあの瞬間、5メートル下に見えるポールを見つけた。飛び降りる前に外した上着を手に持ち、勢いよく病棟を蹴飛ばした。そしてその勢いのまま、ポールを掴んだ。それは、素手だったら不可能だったかもしれない。しかし、上着越しであったため摩擦は最小限に抑えられ、九条の身体は緩やかにポールを中心に回転した。それはまるで、勢いのついたブランコのように・・・。そして再び身体が上昇した瞬間を見計らい、手を離した。そしてそれはその勢いのまま隣のビルへと飛び、隣のビルの窓ぶちに手をかけることができた。それは正に、一瞬の判断の遅れも許されぬ状況であった。
 その判断が少しでも狂っていれば、どうなっただろう。病棟を蹴って僅かに軌道を変えていなければ、ポールに手は届かなかった。そして、上着をはずして手を覆っていなければ、ポールとの間に摩擦熱が生じ、隣のビルに辿りつくことすらできずに落下しただろう。全てはギリギリの判断だった。しかし、成功した。
 そして幸運な事に、飛び移ったビルの窓は開いていた。いや、幸運ではない。それは、状況からして極めて可能性の高いものでもあった。何せ、隣にある病院で人質立てこもり事件だ。病院前では警察やマスコミがかけつけている。第一に、九条が病院の屋上から姿を晒しているのだ。普通の者ならば、野次馬根性でそれを観察しようとする。そこにいた者が窓を開けて見上げているということなど、十分に有り得ることだった。しかし、それら信じることのできない幸運は、全て九条が行った行動によってもたらされたものだ。
 隣のビルに侵入した九条は、そのまま裏口に回り、もう一つ隣のビルに入って階段を駆け、この男の背後をとった。それは、自分が飛び降りてから1分も経過していない出来事だった。
 男は信じられない表情をこちらに向けているが、さすがにその自分の長い行動を説明する気にはならない。
「・・・女神附體於我(ボクには女神様がついているんですよ)」
 九条はそれだけ言うと、男が持っていた拳銃を手に取り、屋上の入り口で様子を見ていた警官に手渡した。「どうぞ」
 警官はそれを確かに受け取り、九条の顔を覗き込んだ。そこで初めて気がついた。帽子がなくなっていることに。恐らく、落下中に外れてしまったのだろう。しかし、今頃気がついてももう遅い。目の前にいる数人の警官にもう顔を見られてしまっている。
 九条は自分の最後の不手際に対してため息をついた。
「・・・あなたは・・・何のためにここまでされるのですか?」
 目の前にいる若い警官はそう質問をしてきた。他の警官も、同じような視線を九条にぶつけている。それを見て、九条は小さく笑みを浮かべて口を動かした。
「・・・大切な・・・世界で一番大切な人のために」
 九条がそう言うと、警官は一斉に道を開け、敬礼した。
「あなたは犯罪者ではない! 立派な人物です!」
 その光景を見て、九条は苦笑した。
「・・・いいんですか? ここで逃がしたら後で上から怒られてしまいますよ?」
「構いません。殴られるのを覚悟の上で、あなたをお通しします。そして、私たちはあなたの顔も見ていません!」
 そこにいた数人の警官はそのまま敬礼した状態で眼を閉じた。
「・・・ありがとう・・・」
 九条は彼らにそう感謝を述べると、静かにその階段を降りて行った。

 そして、ルネから連絡が入った。
手術は・・・成功した、と。
 九条は小さくガッツポーズをとり、左腕の痛みも忘れて笑みを浮かべた。
「・・・頑張ったな、涼子・・・」

『犯罪者A』 完

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