『エピローグ』

 ―あれから、4ヶ月が過ぎた。
『グランドホスピタル立てこもり事件』はアメリカ国内だけでなく、その他各国にもその映像が報道された。
「あの青年は一体誰だったのか?」
「そして、一体どこへ消えたのか?」
 そうした活字が直後は新聞を賑わせていた。『立てこもり事件』。それは、僅か3時間の出来事だった。青年が屋上に現れ、中国人マフィアに撃たれ、屋上から飛び降り、そしてマフィアを制した。そして青年が姿を消した直後に病院内に駆け込むと、犯人グループと思われる人物は一人もおらず、まるで、それは文字通り煙のように消えてしまった。しかしマスコミや各テレビ番組は、そういった結果よりも、グランドホスピタルの屋上から青年が飛び降りた瞬間の映像をセンセーショナルに取り上げている。
 ある番組では『奇跡のダイブ』と公開されている。
 しかし、4ヶ月も経つとそれらの事件も少しずつ風化し始めてきた。新聞やニュースからそれらの話題が少しずつ消え、人々の記憶にも、ただ片隅に置かれる程度のものとなった。

 あれから、涼子はイーサンと共にアメリカに残っている。手術自体は成功したが、5年ほどはイーサンの元で術後の合併症が現れないか経過を視ないといけないらしい。義母のあかりにそれを伝えると、夫を連れてすぐにアメリカへ飛んだ。涼子が完治するまで、そちらに滞在するつもりのようだ。あかりとその夫は仕切りに「ありがとう」と頭を下げていた。
「頑張ったのは涼子ですよ」
 と言っても、まるで自分が治したかのように感謝されてしまった。
 アメリカは日本と違って危険な場所もあるが、ソニードという男がその家族のボディーガードとしてついていると渡瀬から聞かされた。それならば安心だ。

 そして、最後の問題が残っている。
イーサンへの治療費、1億5000万ドル。この大金を払うために、九条は『裏の世界』へ足を踏み入れることを決めた。しかし、今の自分ではその世界でとても生き残ってはいけない。高、そして立てこもりでの事件は、本当に運が良かっただけだと九条は思っている。その世界で生き残っていくためには、ギリギリではダメなのだ。大切な人を余裕で守れるくらいの腕がいる。それを実感した九条は、ここ最近では毎日のようにアルマとルネに訓練をつけてもらっている。
「今ならまだ、引き返せますよ?」
 訓練の休憩中、ルネは何度もそう聞く。一般人である自分が危険な世界に飛び込むのを心配してくれているのだろう。しかし、自分の決意は変わらない。
「心配してくれるのは嬉しいよ。でも、もう決めたんだ。もっと腕を磨いて、1年後にはその世界でやっていくと決めたんだ。そして早く治療費を返して、涼子を迎えにいくんです」
 そう微笑む九条を見て、ルネは小さく笑った。
「・・・今の瞬の実力じゃ、1年は短すぎます。最低でも3年ですね」
「いぃ? そんなに待てませんよ」
「それでは、私に勝てたらその世界に入れてあげますよ」
 ルネはそう微笑すると、九条に向かい合って軽く掌を顔の前に置いた。
「よし! ルネ、今の言葉、忘れないでくださいよ?」
 九条は立ち上がってルネへと突進した。

 部屋の戸を開け、九条は倒れこんだ。
結局、ルネに1発も当てることが出来ずに惨敗してしまった。
「はは・・・これじゃ、いつ裏の世界に入れることやら・・・」
 ルネに勝つには、本当に3年は必要になるのかもしれない。中国マフィア、ブラッドコブラの連中に勝つことはできたが、それは本当に相手が動揺していたから勝てたのだなと苦笑した。今の自分の実力では、普通にやり合っては絶対に勝てない相手だったのかもしれない。
 軽く眼を閉じると、目蓋の裏には涼子の顔が浮かび上がってくる。
「・・・大丈夫。諦めないよ」
 九条はそう呟き、起き上がった。そして先ほど届いた涼子からの手紙の封を開けた。

『―瞬君。こんにちは。元気でやってますか?
私の方は、何とか経過も良好で、今では普通に走ることもできます。イーサンさんには「大人しくしてろ」って怒られちゃうんだけどね。
 こっちは楽しくやってます。お父さんもお母さんも、もうアメリカに順応してるみたい。この前なんかソニードさんを買い物に付き合せてたりね。
 あ、そういえば少し前にマシューっていうお医者さんが来たよ。イーサンさんに弟子入り頼んでて、この手紙を書いてる今でも玄関前で座ってるんだよ?
 ・・・瞬君と渡瀬さん、ルネさんとアルマさんは日本に戻っちゃうし、クロードさんは行方知れず。
やっぱり瞬君と会えないのが一番寂しいな・・・。
 
 私は、瞬君が好きです。
でも、何年も待ちません。病気が完治して、それでもまだ瞬君が迎えにきてくれなかったら、私から迎えに行っちゃうからね』

 その手紙を読んで、九条は苦笑してしまった。
「迎えに行っちゃうからね・・・か。迎えにこられたら格好がつかないじゃないか、全く・・・」
 九条は眼を細めて天井の先を見つめた。あの人は、オレにいろいろなことを教えてくれた。小心者だった自分。それを変えてくれた。
 あの人は自分にあるモノをくれた。
 楽しかった過去を。切ない現在を。そして、渇望する未来を・・・。
 あの人は教えてくれた。
 人を好きになるということを。そして切なさや苦しみを。
 それを想うと、涼子の温もりを欲している自分がいる。
「早く会いたい・・・」
 九条はそう強く感じた。これほど強く願うことなど、過去にはなかったかもしれない。そうしたくすぐったいような気持ちなど、涼子に出会わなければ一生抱かなかったかもしれない。
 しかし今その気持ちを抱いている。胸が苦しめられ、それは銃弾の痛み以上に九条を襲う。
 気を抜くと、涙が溢れそうになる。しかし、耐えた。どんなにあの人が自分の隣にいてほしいと感じても、どんなにあの人の笑顔を望んでも、今は会わない。会うのは全てが終わってからだ。
 オレは泣かない。今の状況に後悔しない。これが自分が考えうる最高の最善だったのだ。自分はこの道を真っ直ぐ進むのだ・・・。
 その手紙とは別に、贈り物があることに気がついた。「何だ?」
 ダンボールを開け、中を覗くと布に巻かれた大きな何か。九条はそれを持ち上げ、畳の上に置いた。布を取ろうとしたその瞬間、携帯に着信が入った。
「はぁ、誰だよ。はい、もしもし?」
「あ、九条君!」
 声の主は今岡だった。「お願い、今すぐバイトに来てくれない? 研修生の水野さんが急に風邪ひいちゃったみたいで人がいないんだ。頼むよ」
「はぁー・・・わかりました。そんな泣きそうな声を出さないでくださいよ。それじゃ、今から出るので後15分待っててください」
 九条はそう伝えると通話を切り、手にしていた布を離して部屋を飛び出した。


 開いたままの窓から冷たい風が部屋の中に吹き込んだ。
それはゆっくりと布をめくり、包まれていたものをさらけ出す。そこにあるのは一枚のキャンバス。そして一枚のメモがついていた。









           



『また・・・逢おうね』

『水無月に咲く花』 END

inserted by FC2 system