『犯罪者@』

「ん〜・・・疲れた・・・」
 マシューは思い切り背伸びをし、硬直してしまっている背中の筋肉を解した。彼は今日も夜勤でここ、グランドホスピタルで働いている。院長も人使いが荒くて困る。部下をこうしてこき使い、自分は重役出勤・退勤だ。全くイヤになる。
「Dr.マシュー」
 ナースに声をかけられ、マシューは欠伸を噛み殺しながら振り向いた。そこには同僚のエマがカルテを手に立っている。「外科部門では天才と呼ばれているあなたも、手術室を離れるとただの人なんですね。口元、よだれの跡がついてますよ」
 エマに指摘され、マシューは慌てて袖で口元を拭いた。
「ボクは天才なんかじゃないさ。世の中にはもっと優れた医者がいるからね」
「またまたご謙遜を。あなたは今年も院長から表彰されたじゃないですか。この大病院で一番の医者の称号も得たのです。この国では皆、あなたの医術に期待しているんですよ」
 それを聞き、マシューは肩を落とした。期待されるということは、それだけのプレッシャーがかけられているということだ。この立場まできてしまうと、一度の失敗も許されない。それはかなりの精神的なストレス要因となっている。
「・・・まぁ、そんなことはどうでもいいさ。で、見回りは終わったのかな?」
「ええ。患者さん、皆静かに寝ていますよ。マシューもしばらく仮眠とったらいかがですか?」
「う〜ん・・・確かに眠いんだけどね。でもなぜか眠れないんだ。寝てはいけないような気がしてしまってね」
「それは・・・医師の勘ですか?」
 エマのその言葉に、マシューは静かに肯いた。こう何年も医療に携わってくると、こういう鋭敏な感覚がマシューには備わった。過去にも、退勤直後にこの感覚に襲われた。人には説明し難いが、この場に残っていなければならないようなそんな気がしたのだ。そしてその2時間後、その予感は見事に的中した。緊急で患者が運ばれてきたのだ。それも、かなり難易度の高い術式だった。運ばれていた患者が一人ならば、何とかなっただろう。自分の他に、優れた医者がいたからだ。しかし、運ばれてきた患者は二人だった。彼一人では、タイムリミットに間に合わず、その他の医者は、不運にも研修医や新人ばかり。他の優れた医者は研究会に飛ぶかすでに退勤してしまっていた。自分がその場にいたため、何とか事なきを得たが、全てが終わってからマシューは、自分が感じた奇妙な感覚に恐怖を感じた。それはまるで、神が自分を引き止めたかのような錯覚に陥った。
 そして、今現在もその感覚に襲われている。
・・・何だ? 今度は一体何が起きるのだ?
 現在この病棟では、それほど深刻な患者はいない。症状が急変するといった危険な患者はいないのだ。ならば、この感覚は何を予見しているのだろう。再び緊急な患者が運び込まれるのだろうか?
 マシューは言いようもない不安に襲われ、その時を待った。

 深夜5時40分。
マシューが眠気覚ましにコーヒーを飲んでいると、急に電話が鳴り響いた。すぐに受話器を取り、耳に当てた。
「先ほど○○地区から通話があり、緊急の患者をそちらに移送します。緊急ですが、すぐにオペの用意をお願いします」
 それは救急隊員からの連絡だった。
「病態は?」
「現在バイタルサインを確認しました。血圧・呼吸数の数値に異常が見られています。本人からの話によりますと、骨髄にも病態を認めているようです」
「わかりました。すぐに準備します。1番オペ室へ運んでください」
「わかりました」
 マシューはそれだけ伝えると、受話器を置いて立ち上がった。先ほどの予感は、このことを指していたのだろうか? まだ何かが引っかかっている気分だが、今はそんな事態ではない。マシューはすぐに宿直の外科医に連絡をとり、オペ室へ向かった。
 そして5分ほどして、救急車が病院の前に到着した。救急隊員がすぐに患者を下ろし、ドクターとナースに誘導されてマシューの元へと辿りついた。救急隊員と一緒に連れ添ってきた患者の関係者がマシューの前に来て頭を下げた。腰まで届く銀髪の美女だった。
「お願いします、妹を助けてください」
「この子のお姉さんですか? 安心してください。全力を尽くします」
 マシューはそう声をかけて患者の顔を見た。「ん? 妹さんは日本人ですか? あなたは日本人には見えませんが」
「・・・この子は遠い親戚の子です。でも、両親が亡くなられてから家が引き取りました。親は違っても、私にとっては可愛い妹です」
「そうですか、失礼しました。それで、妹さんは持病などをお持ちなのですか?」
「あの・・・以前病院に診察を受けたとき、この診断書を受け取りました」
 姉はそう言ってカバンから一枚のカルテをマシューに差し出した。マシューはそれに眼を通し、驚いて眼を見開いた。
「これは・・・」
 マシューはそのカルテを一目見て「助からぬ患者」と理解した。身体の各臓器の機能低下。骨髄の微細な損傷。今から骨髄バンクに連絡をとっても間に合うはずがない。各臓器の移植にしても、すでに手遅れな程臓器は衰弱していまっている。
「どうしました?」
 救急隊員の一人がマシューの顔を覗き込んだ。「患者をオペ室に運びました。大至急お願いしたいのですが・・・」
 マシューは答えに窮した。「天才」と称されている自分でも、この病態から患者を救う手立ては思いつかなかった。それはオペをしても何ら変わることはないだろう。その不快感を浮かべたマシューを見て、救急隊員は笑みを浮かべた。
「治せないのだろう?」
「え?」
 マシューは驚いて隊員の顔を振り返った。その笑みを浮かべる顔を見て、無意識に仰け反った。その瞬間、耳元で冷たい音が聞こえた。
「動かないで」
 耳元で、拳銃が自分を狙っていた。そこには、患者の姉と証言していた美女が立っている。「言うとおりにしてもらえれば、危害は加えません」
「まぁ、そういう訳だ」
 隊員がマシューの顔を見て相槌を打った。「お前の顔・・・見たことがあるな。医学会でも『天才』と称されているマシュー・ノーマンだろう? これはいい。お前は今からオレの手伝いをしろ。第2執刀医だ。それから助手を3名。そして麻酔医をオペ室へ呼べ」
「な・・・なにをするつもりだ」
「決まってるだろう。オペ室でやることといったら一つしかない。オレが、この患者をオペするんだよ。いいからお前は言うとおりにしろ」
 マシューは隣で狙っている拳銃を横目で見て、喉を鳴らした。
「・・・どういうつもりかわからないが・・・言うとおりにしよう。だが、医師であるボクの意見を言わせてもらうが・・・助かる見込みがない」
「お前にとって可能性はゼロかもしれん。だがオレにはそれを可能にするかもしれん方法がある。いいからとっととついて来い」
 マシューはその男に連れられ、オペ室へと入っていった。その場には、片腕の大男が銃を手して立っていた。既に到着していた同僚の医師と、麻酔医がその男に怯えて座っていた。
「イーサン、オレは外の様子を見てくる。ここはアルマとルネとお前に任せるぞ」
「ああ、問題ない。とっとと行ってしまえ」
 イーサンと呼ばれた隊員は、「クックック」と笑うと患者の女の子の顔を覗き込んだ。「・・・大丈夫か?」
「うん・・・。ちょっと恐いけど、瞬君とも約束したから」
「まぁ、成功率6%だ。恐いのは当然だ。だが、お前は信じていてくれればいいさ」
「うん、お願いします。信じます」
 その患者こと涼子はニコリと微笑んだ。それを見て、イーサンは楽しそうに笑った。少しして、マシューから連絡を受けたナースが駆けつけ、オペ室へと入ってきた。そしてその中の状況を見て、無言で後退った。しかし、それをルネが引き止めた。
「お、揃ったか。おい、お前ら! すぐにオペを始める。これからオレの言うとおりにして動いてもらう。いいな」
 イーサンはそう全員に伝えると、麻酔医を睨んだ。「やってくれ!」

 この大病院に立てこもり、40分が経過した。予想通り、連絡を受けた警察が病院の周りを取り囲んでいる。
「・・・すごいことになってるな」
 その光景を、九条は病院の屋上から見下ろしていた。眼下にはたくさんのパトカーが停まり、真っ赤に点滅するランプがいくつも広がっている。少しずつ明るくなってくる空を見上げ、九条は渡瀬から受け取った帽子を深く被り、その明るさを受け止めた。
「瞬、あまり前へ出ないほうがいい」
 背後にクロードがやってきて言った。「ここは日本とは違う。こういう犯罪の犯人に対する反応は、甘く見ないほうがいい。特殊部隊が召集されていれば、遠くから狙撃してくることも考えられる」
 それを聞き、九条は振り返って笑みを浮かべた。
「それは理解しているよ。第一、もう警察は屋上から見下ろしているオレを発見し、何やら騒いでいた。こうしてオレが姿を見せているんだ。もうじき、何らかのコンタクトをとってくるだろうね。それに受諾しなければ、そういう方法でくるだろう」
 九条は再び眼下を見下ろした。何人かの警察が、しきりに自分の方を指差している。少し離れてリポーターやカメラマンも来ている。もしかしたら、緊急特番として中継されているかもしれない。渡瀬から渡されたこの帽子を深く被っているから自分の素顔が晒されることはないが、どう放送されているのか気になるところだ。
「クロード、ここはオレ一人でいいよ。クロードはこう言っては悪いけど、明らかにそっち方面の体躯をしている。きっと相手を刺激させてしまうよ。それに比べ、オレはどこにでもいそうな青年だ。こうして腕も広げ、武器を所持していないことを強調させておく。だから警察からの対応はオレに任せて、クロードはもしあいつらが侵入してきた場合に備えて欲しい」
 その九条の毅然とした態度に、クロードは圧倒されて肯いた。
「わかった・・・。だが、無茶をするなよ」
「わかってる。それに、オレはこれからこういう世界に飛び込もうとしているんだ。こういう緊迫感にも慣れておきたいからね」
 そして眼下を見下ろす九条を見て、クロードは眼を細めて見ていた。
(変わった)
 クロードはそう思った。この世界に馴染んできたのかもしれないが、それよりも、目の前の青年には何か強いものを感じる。それは、最初に出会った時より、もっと強い何か・・・。ブラッドコブラと相打った時よりも、彼はより強い信念を抱いている。
「わかった・・・。それじゃぁ、また後でな」
 そう言って屋上を後にするクロードを、九条は背中を向けて手を振った。
「・・・空も明るくなってきた。そろそろ、何らかのコンタクトを送ってきてもいい頃だな」
 こうして屋上から見下ろしていると、警察の動きがよくわかる。向かいのビルにも、彼らが乗り込んでこちらを観察している。「日本とは違う」というクロードの言葉を思い出した。そう、こういう人質を得ている犯罪者には、いつ銃弾が飛んできても不思議でないのだ。しかし、不思議と震えがこない。何度もこういう場面に出くわして、感覚がマヒしてしまったのだろうかとも思ったが、そうではない。確かに『死』は恐い。しかし、それよりももっと強い何かが自分を突き動かしている。
「・・・涼子の手術が終わるまで、時間を稼がないとな」
 九条がそう呟いた直後、向かいのビルの屋上から2人の警官が出てきた。こちらを逆上させないよう、拳銃は持っていないように見える。この病院の屋上と向かいのビルの屋上は、互いに同じ高さ位である。そのため、自分と警官は互いに向かい合う形となった。
 自分は手ぶらであることを強調しているが、どこかから自分を狙っているスナイパーがいるのだと九条は思った。しかしそれを前提に考えて正面にいる警官や、眼下にいる人たちに自分の姿を晒した。
「一体、何が目的だ?」
 正面にいる40歳後半くらいの警官が、英語でスピーカーを使い話しかけてきた。それを聞き、九条はルネに教わった英語でゆっくりと答えた。
「・・・安心してください。この病院にいる患者、ならびドクター、ナースに危害を加えるつもりはありません。彼らの安全は保障します」
 不意に、眼下に見えるカメラが自分を撮っていることに気付いた。今は正に、自分の姿がアメリカ国内に放送されているのだろう。九条は続けて彼らに呼びかけた。
「私の目的は、この病院の施設をしばらく使わせていただくことです。全てが終わったら、この病院内にいる全ての人を解放することを約束します」
 正面にいる2人の警官は互いに顔を見合わせ、再び質問を投げかけた。
「君に、施設を占拠した理由を聞きたい。こちらも、できることなら君たちの力になりたいと考えている」
 警察はこう言っているが、九条はそれがただの表面上の言葉であることはわかっている。要は、「私たちはあなたの味方です」と呼びかけて犯人側の油断を誘う常套手段なのだろう。それを証明するかのように、ビル内部のオフィスに、警官、特殊部隊と思われる人たちの影を認めた。隙あらば、狙撃を考えているのかもしれない。しかし九条は怯まなかった。
「この病院の施設をお借りしたのは、それしか方法がなかったからです」
「・・・つまり、それはどういう訳ですか?」
「今・・・一人の女性が病気で苦しんでいます。しかし、彼女は今の医学で治すことは不可能と言われています。最初にそれを聞いたとき、私は絶望しました。しかし、希望の光を、私は見つけたのです」
 九条は続けた。「彼女を治すことができるかもしれない人を、見つけることができました。しかし・・・その人は世間に認めれていない医師です。設備の整った場所を確保しようにも、絶対に許しは下りないでしょう。ですから、行動を起こしました。」
「それでは、その治療が終わったら・・・あなたたちは全ての人たちを解放してもらえるのだね?」
「そのつもりです。しかし、仲間をあなた方に引き渡すことはできません」
 そう、クロードたちを渡すわけにはいかない。自分のワガママのためにこうまでしてくれた彼らの想いを踏みにじる訳にはいかないのだ。
「・・・それでは、本当に人質に危害は加えないのですね?」
 警官が再び質問する。
「はい、約束します。もしそれが信じられないのでしたら、私があなた方の人質になります。そのために、武器も持たず、こうしてあなた方の前へ出ているのです」
 そして、向かいのオフィスに隠れている者たちに向けて手を広げた。
「仲間たちも、危害を加えるつもりはありません。もしそれが信じてもらえないのでしたら、いつでも私を撃ってもらって構いません」
 その九条の姿を見て、正面に説得に出てきている警察も、オフィスにいる部隊の隊員も、そして眼下にいる警察やリポーターや野次馬がざわついている。
「わかりました。それではその治療が終えるまで、お待ちしている」
 警官がそう言って引き下がろうとしたその時だった。
パンッ―
 乾いた音が響き、九条は腕に強烈な痛みを覚え、倒れこんだ。九条は咄嗟に音のした方に眼を向けた。
2つ程離れたビルの屋上で何者かがこちらに銃を向けていた。撃たれた方向的に、そいつが撃ったものに間違いなかった。
しかし、それは警官とも、特殊部隊的な人物でもなかった。
 東洋人。それも、過去にあった中国マフィア、高と雰囲気が似ている。
「ブラッドコブラ・・・か」
 どういうルートで自分の位置を突き止めたのかわからないが、どうやら壊滅させた本人に復讐しにきたと思われる。その銃声を聞き、クロードが戸を開けた。
「瞬!」
 クロードが手に持っている拳銃に気付き、九条は叫んだ。
「クロード、来るな!」
「瞬! しかし!」
「今のは警察じゃない。ブラッドコブラの生き残りだ。それにここでクロードが発砲したら、警察も動かざるを得なくなる。クロードは・・・そこから出ないでくれ」
 九条は撃たれた左腕を押さえ、再び銃を構えている人物を視界に入れた。既に、警察や野次馬もその犯人に気付き、注意を向けた。
特殊部隊は、瞬時に九条からその当然現れた危険人物に狙いを変えた。
「是報復(復讐だ)・・・」
 男はそう言って笑みを浮かべ、再び九条に狙いを定めた。

『犯罪者@』 完
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