『九条の決意と涼子の想い』

「本気か?」
 受話器から、渡瀬の声が響いた。それを聞き、九条は静かに「本気です」と答えた。
イーサンから要求された治療費、1億5000万ドル。これは日本円にして約160億という信じられないような数字になる。これを返すには、普通でいる訳にはいかないのだ。
「だが、坊主! 裏の世界には・・・命を落とす可能性もある。あのブラッドコブラの一件だって、ギリギリのところで生き延びたに過ぎない。だからお前はそんな危険な橋を渡る必要はない。だから・・・オレたちに任せておけ」
「いえ、気持ちは嬉しいですが・・・イーサンはオレに対して『払ってもらう』と言いました。だから、オレ自身が払わないといけないんです」
「だがなぁ・・・」
「それに、今涼子は死の苦しみと闘っているんです。オレだけが安全な場所にいて、あいつ一人を闘わせるなんてことはできない。だから・・・オレもオレのやり方で一緒に闘いたいんです」
「・・・しかし・・・」
 渡瀬は不満そうだ。電話越しで頭を抱えて悩んでいる姿が用意に読み取れる。
「そういうことなので、宜しくお願いします」
「あ、おい―」
 九条は渡瀬の返答を聞かず、そのまま着信を切った。
「・・・これで、いいよな?」
 自分に言い聞かせるようにして小さく呟いた。イーサンやアルマ、渡瀬の前では毅然として振舞っているが、心の奥底では不安が残っている。また再び、ブラッドコブラの高みたいな連中に銃を向けられたら、生きていける自信はない。その世界に飛び込むとなると、常にそういう危険が自分の身に寄り添ってしまうのだろう。
『今度は殺されるかもしれない』
 そう思うと、肩が震え始めた。自分の身体は、高から受けた銃弾の痛みを記憶している。自分の身に死神が近づいていく瞬間の恐怖を、この身体は覚えている。自分は、皆が思っている程強い人間ではない・・・。
「恐怖を感じない人間なんて、いませんよ」
 その突然の声に驚き、九条は背後を振り返った。そこには銀髪をなびかせて立っているルネがいた。「・・・恐いのですね?」
「・・・何の話ですか?」
「先ほど、アルマから話は聞きました。そして失礼だとは思いましたが、渡瀬との電話のやり取りも見ていました。あなたは・・・私たちと同じ舞台に立つつもりなのでしょう?」
 九条は全く気がつかなかったが、どうやら気配を殺してすぐ傍で聞き耳をたてていたようだ。自分の弱さを見抜かれて、九条は眼を逸らした。
「・・・そのつもりです」
「そして、この世界にはいつも『死』が傍について廻ります。それは、まるで隣人のように・・・。あなたはそれを過去の一件で体感しているので、恐怖を感じているのでしょう?」
「それは・・・」
 何も言い返せない。全てはルネの言うとおりだった。しかし、涼子も同じような恐怖を感じているのだ。自分だけ逃げるわけにはいかない。
九条はルネの眼を見据え、軽く笑みを浮かべた。
「・・・瞬?」
「確かに、恐怖は感じています。でもそれは、死ぬことに対してじゃない。今一番恐いのは、二度とあいつに会えなくなることです」
 その九条の態度に、ルネは圧倒されてしまった。九条の眼には、強い光に溢れている。それはまるで、信念の炎が彼の中で立ち昇っているように感じられた。
「ルネ、心配してくれてありがとう。でも、もう大丈夫です。オレはもう迷わずにこの道を歩きます」
 九条は強い口調でそう言うと、ラスベガスの町へと出て行った。

 ・・・天然記念物モノだな。
イーサンはそうぼやいて医学本を読み漁っていた。今自分の頭の中で浮かんでいるのは、九条瞬という男だ。人目見たときは「一般人」という印象しかなかった奴が、急に強い光を帯びた眼を向けた。今時の若者には珍しく、心の中に何かを植えている。あのお人よしのワタセの言葉を借りるとすると、『信念』といったところか。
「・・・治療費をふっかけたそうだな」
「・・・またお前か。気配もなしで部屋に入ってくるのは止めてほしいな」
 イーサンはため息をついて椅子の向きを変えた。「クロード、あのガキはなかなかに面白い」
 戸の傍で立っていたクロードは苦笑して天井を見上げた。
「そういう魅力が瞬にはあるんだ。私も渡瀬もそう感じている」
 視線をイーサンに戻すと、「本当に1億5000万ドルを払わせるつもりか?」と聞いた。
 それを聞き、イーサンは嬉しそうに笑った。
「当然だ。世界で誰も治せない病体だ。誰にも文句は言わせない」
 これが闇医者のメリットだとイーサンは言う。本来の病院などでは、人としての倫理などがまかり通るのだが、この世界では自分たちが法律だ。
「成功率は6%・・・ということらしいな」
「ああ、オレも初めての術内容だからな。この術式が成功し、表に知れ渡ったら表彰もんだな」
「表に知れ渡ったら、その前にお前はブタ箱行きだ」
「わかってる。免許無所持だから当然だ。だからオレは表に出るつもりはない」
 しかし、彼は患者のほとんどを治している。裏の医者がサジを投げた患者も、高額な治療費を払ってイーサンに頼み込むほどだ。しかし、政府界の重鎮やプロなら高額な治療費も納得できる。事実、アメリカ政府の高官が依頼にきた時などは『25億ドル』を要求した話もある。しかし、今回は話が全く違う。
「なぜ、1億5000万ドルなのだ? お前も見ての通り、瞬はただの一般人だ。お前だって、返せる額でないと理解しているだろう?」
「いいや、そうは思っていない」
 イーサンはクロードに笑いかけた。「オレには信じられんが、あのガキは女一人のためにそれを受諾した。この世界にいるオレには到底判断できんが、この世界に入る前にそういう気持ちを抱かなかった訳じゃない。言わば、『惚れた女のために』ってやつなのだろう? 面白いじゃないか。だたの一般人のあのガキが、そういう女のためにどこまでできるものか、興味をそそられないか?」
 そう話すイーサンの顔は、いかにも楽しげに映った。それを見て、クロードは苦笑した。
「・・・確かに、どう化けるのか興味はある。だが、その前に涼子の手術を成功させないと話しにならん。もし失敗したら、私がお前を殺すからそう思え」
「おいおい、脅すのは止めてくれよ。恐くてメスを持つ手が震えたらどうするつもりだ」
「ふん、お前がそんな繊細な心臓の持ち主のはずがないだろう。カジノのポーカーで平気でイカサマをするやつだ」
「ちぇ、バレてたか」
 イーサンはそう苦笑すると、再び医学本を広げた。この男がここまで真剣に手術に控えるのも珍しい。クロードはそう思った。それだけ難しい治療になるのも確かだろうが、それよりも『九条のため』という気持ちの方が強いように思える。この男も、九条瞬の魅力に取り込まれてしまったのだとクロードは改めて笑ってしまった。

 涼子はゆっくりと目を覚ました。目を開けると、そこには見覚えのない天井。
「ここは?」
「ホテルのルームですよ。昨日借りて泊まったのです」
 涼子の様子を見るように、隣のベッドでルネが座って言った。「身体の方は、大丈夫ですか?」
「・・・はい」
 そうは言ったものの、身体がだるくて起き上がれそうにない。「あの・・・瞬君は?」
「今はアルマと一緒に町に出かけてます。それにしても、あなたは本当に彼を好きなのですね」
 ルネはそう言って可愛く笑った。
「え・・・そ、その・・・好き・・・ですよ?」
 毛布を顔半分までかけて、真っ赤になって涼子は答えた。その初々しい表情を見て、ルネは再びクスクスと笑った。「あ、あの・・・それで、どうなったんですか?」
「ああ・・・、あなたは寝てましたからね。手術は2日後に行われます。今は体力を温存しておいてください」
「成功・・・するんですか?」
 その質問に、ルネは何と答えていいものか窮した。6%という数値はほとんど絶望的に近い数字だ。
「・・・そのことですが、瞬が全部直接あなたに話すそうです。瞬が帰ってきたら、この部屋に呼びますね」
「・・・わかりました」
 涼子は力なくそう呟いて目を閉じた。「私も・・・話したいことがあるから・・・」
 そして、ゆっくりと意識の奥へと落ちてゆく。

「・・・涼子」
 葵は涼子の前に立ち、哀しそうな表情を浮かべている。「大丈夫?」
 涼子が正面を見上げると、葵、杏、百花が心配そうにこちらを向いている。
「皆こそ、大丈夫そうには見えないよ・・・?」
 涼子は彼女たちを心配させまいと、精一杯の空元気の笑顔で答えた。でも、皆はもうわかっている。彼女たちは、刻一刻と近づいている九条との別れに胸を痛めているのだ。
 こうしてみると、色々なことがあった。九条と出会い、約5ヶ月が経った。それは他の人にしてみれば僅かな時間にしか過ぎないかもしれないけど、自分にとっては、人生で一番楽しくて幸せな時間だったと思う。目を閉じると、九条の顔が思い浮かぶ。怒っている顔。笑っている顔。呆れている顔。照れている顔。そして、自分を好きだと言ってくれた顔・・・。どれも私は忘れない。あの人と一緒にいた時間を、私は忘れない。ずっと胸に刻み、抱えていこう・・・。
「・・・来た・・・」
 涼子は顔を上げて言った。「瞬君が・・・近くまで来ている・・・」
 彼女たちは立ち上がり、上空にゆっくりと手の伸ばした。

『九条の決意と涼子の想い』 完
  NEXT→

inserted by FC2 system