『始まった絶望』

 今日も頭がクラクラするほど暑い。やっぱり、温暖化なのだと涼子は感じた。
涼子は自分の部屋の冷房を入れ、窓の外を見下ろした。
「…まだ来ないのかな?」
 自分にはもうあまり時間がない。それならば、できる限りあの人と一緒にいたいのだ。そして、直前で別れを切り出さなければならない。その時は、うんと嫌われるようにしないといけない。しかし、それを考えると胸が痛む。
 窓の下から九条が歩いている姿が見えて、涼子は嬉しそうに部屋を出て玄関先へと走り、戸を開けた。
「瞬君!」
「あ、まだインターホンも鳴らしてないのに…早いな」
 インターホンに指を伸ばし、今まさに押そうとしていた九条は驚いて苦笑した。
「あはは・・・何となくね。それより中へどうぞ? もう部屋は涼しくなってるよ。先に行っててもらえるかな? 私、お茶入れてくるから」
「…ああ」
 心なしか、九条の表情に元気がない。どうかしたのだろうか。九条は自分を見る涼子の視線に気付いて「それじゃ、先に行ってるよ」と階段を駆けて行った。涼子は疑問に思ったが、とりあえず冷えたお茶を入れて後を追った。
「涼しい?」
 部屋に入って涼子は聞いた。「瞬君、暑がりだからね」
「ああ、汗も引いていくよ。やっぱりオレは夏より冬の方が好きだ」
「…そうなんだ」
「…冬、どこか行くか?」
「え?」
 涼子はお茶をテーブルに置いて九条の顔を見た。「…そうだね。瞬君の行きたいところでいいよ」
 自分は無理して笑った。自分に、そこまでの時間が残されていないことはわかっている。橘に言われた宣告日も、後2週間と少し。その前後に私は満足に身体を動かすこともできなくなり、そして意識も失って目覚めることのない眠りにつくのだろう。この人と一緒にいたいが、それはもう叶わぬ夢だと理解している。
「それじゃ、スキーでも行かないか?」
「う、うん。そうだね」
 話を合わせているが、九条は時折哀しそうな瞳をこちらに向ける。本当に泣いてしまうのではないかと思ってしまった。「瞬君、どうかした?」
「いや…何でもない」
 九条は首を振るが、いつもと様子が違うことに涼子も気付いていた。もしかしたら…もう自分のことを知っているのかもしれない。この人は、頭のいい人だから。この人は、本当に優しい人だから…。
 そして2人は何か会話をすることなく、その部屋で外から聞こえるセミ時雨を聞いていた。涼子はちらっと九条の横顔を見た。俯き、何やら考え事をしているように見える。
「…オレは、諦めないぞ」
 不意に九条が口を動かした。そしていきなりこちらを振り向いたものだから、涼子は慌てて目を逸らした。
「…何の話?」
「ああ、お前は何も答えなくていい。ただ、これだけは知っておいてもらいたい。オレは…涼子と…その…離れたくないんだ。だから、オレは諦めない」
 一部分だけ恥ずかしくて少し目を逸らしていたが、九条はすぐに涼子の目を見据えた。「涼子が苦しんでいるのなら、オレも一緒に闘う。だから最後まで諦めない。…涼子はもう諦めているんだと思う。それも仕方ないのかもしれない。でも、探そう。可能性がないのだとしても、ここでその時を耐えて待つよりはずっといい。だから、最後まで探そう。一緒に…いられる方法を…」
 九条はそれだけ勢い良く言うと、涼子の前に手を差し伸べた。
 …私は、どうすればいいのだろう。すでに諦め、死を覚悟している。だけど、私の大切な人がこう言っている。助かる方法は、ない。それは覆せないのかもしれない。これから行動を起こしても、ただの徒労に過ぎず、ただ単に残りの時間を無駄にすることになるかもしれない。
 急に、自分の手がゆっくりと九条の手に向かって動き出した。しかしこれは自分の意思ではない。そう、これは自分の中にいる彼女たちの意思なのだろう。
 あの子たちは・・・この人と一緒に足掻くことに決めたのか。
それならば私は・・・私の気持ちは・・・。
「わかった」
 涼子はそう言って九条の手を取った。瞳の奥に、強い光を九条は感じ取った。「私も、ううん・・・私たちも、探すよ。瞬君と一緒にいられる方法を」
 その言葉を聞き、九条は小さく微笑んだ。

 翌日。
九条は早朝に水無月家に赴き、インターホンを押した。少しして、あかりが戸を開けた。
「・・・九条さん」
 あかりは九条の顔を見ると、小さく頭を下げた。「涼子から話は聞きました。これから、どんな結果になったとしてもあなたを恨むようなことはしません。涼子のこと・・・宜しくお願いします」
「・・・わかりました」
 九条はあかりの後ろに控えていた涼子に視線を移し、微笑んだ。「行くか」
 涼子は肯いて玄関を出る。そして、ゆっくり九条の隣に立った。
「それじゃ、おかあさん。行ってくるね」
 それだけ言うと、涼子は九条の手を取って歩き出した。しばらく歩き、あかりの姿が見えなくなる。そこで涼子は九条の顔を見た。「これから、どうするの?」
 涼子のその言葉に、九条は軽く目蓋を閉じて唇を噛み締めた。そして、ゆっくりと目を開け、涼子と向き合った。
「あれからずっと考えていた。確かに今の医学では、治せないかもしれない。だけど、一般にはまだまだ知られていない世界があるんだ。涼子も知っているだろう?」
「・・・クロードさんたちのこと?」
「ああ。あの人たちに聞けば、一般には知られていないことを教えてもらえるかもしれない。可能性は低いけど、もしかしたら涼子を治すことができる医者だって世界に1人はいるかもしれない」
 九条は涼子の肩を掴んでそう言うと、左手側に顔を向けた。「そういう訳だから、頼めますか?」
「え?」
 涼子が九条の視線の先に目を向けると、そこには見覚えのある人物が経っていた。赤い髪をした長身の男。そして腰まで届くような銀髪をなびかせている女性。ブラッドコブラの支部に乗り込んだときに、助っ人に来てくれた人たちだ。確か、名はアルマとルネ・・・。
 前にいる2人はゆっくりと九条たちの前まで歩み寄り、ルネが微笑んだ。
「どうして私たちが近くにいるということがわかったのですか?」
「これでも周りには気を配ってますからね。なんせオレはマフィアに対してあれだけのことをしたのです。いつ報復されるかもしれません。携帯には今、内側のカメラ機能がついてます。これを使ってよく背後にいる人物などを警戒していたんですよ」
 その九条の言葉を聞き、3人は驚いた。涼子は「そうだったの?」と一番身近にいたにも関わらず、驚きを隠せないようだ。
「・・・しかし、私たちはこれでもプロです。そんな簡単に見抜かれるような尾行はしていないつもりですけどね」
「そうでしょうね。それにお二人はその容姿です。そのまま町に出たりなんかしたら、周りが騒いでいるでしょうね。何せ、美男美女だ」
 九条の「美男美女」という単語を聞き、ルネは恥ずかしそうに俯いた。
「そ・・・それでなぜわかったのですか?」
「まずあなたちが最初に身近にいるかもしれないと考えた理由は、あなた方の性格です」
「性格?」
「ええ。クロードも、渡瀬さんも、そしてあなた方も優しい人です。特に渡瀬さんなんかはオレを坊主扱いです。客観的にみて、報復の可能性が残っているオレに対して、あなた方は何も策を講じないでしょうか? そう考えると、どこかで誰かが護衛してくれているかもしれないと思いました」
「しかし、それは確証はなかったはずです。あなたは私たちのことはそれほど詳しいわけでもない。どうしてそう思えるのですか?」
「・・・いや、思ったというより、信じたのだと思います。クロードは言いました。オレの正義と信念を受け継いでくれるとね。そういう正義を持ってくれているのなら、こういう護衛くらいはしてくれるのではないか、と期待したのです」
 それを聞き、アルマは笑った。
「ルネ、彼は本当に大した肝の持ち主だな。結果、彼の予想通りになっている訳だ」
「そうですね。それで、あなたは私たちに凄腕の闇医者探しを頼みたいのですね?」
「そうです。涼子にはあまり時間が残されていません。一刻も早くお願いしたいのです」
 九条はそこで涼子の詳しい病名、症状を知らないことに気がついた。「あ、今から橘医院に詳しい話をしてカルテを見せてもらわないと・・・」
「そのことなら心配いりません」
 ルネは九条にそう笑いかけると、手に持っていたカバンから一枚の紙を取り出した。「私たちはあなたたちの周辺に気を配っています。そして、少し前からあなた方の様子がおかしいことに気付きました。それからこちらでも色々調べたんですよ。例えば・・・橘医院に潜入して、ある女の子のカルテを写し取ってくる・・・なんてことも、ないこともないですよね?」
 九条がその紙を見ると、それは間違いなく涼子の診断結果だった。この2人は橘医院に不法侵入し、見事にやってくれていたのか。それを思うと、九条は苦笑した。
「犯罪・・・ですよね?」
「それは九条さんも同じことです。富士見谷の家に盗聴器を仕掛けてましたよね? 同罪です」
「はは・・・それもそうですね。では、同罪ついでに闇医者にそれを見せてもらってもいいですか? それがどんなに遠い異国の人でも構わない。オレは、涼子にこれからも生きていってほしいのです」
「瞬君・・・」
 涼子はその言葉を聞き、九条に寄り添った。
「・・・わかりました。それでは、これを」
 ルネは携帯を九条に渡した。「繋がってます。どうぞ」
 ルネに言われるまま、九条はそれを耳に当てた。
「えっと・・・もしもし?」
 九条が戸惑いながら声を発すると、受話器からは懐かしい声で「久しぶりだな!」という声が響いた。「渡瀬さん!」
「おう、元気そうだな。話はアルマやルネから聞いている。全く、お前たちは大変なものばかり呼び寄せるやつだな!」
「はは・・・。それより、話はすでに聞いていたのですね? それなら、もしかして・・・」
「おう! 坊主が考えている通り、もうその凄腕の医者をピックアップしてある。すでにカルテも送信済みだ」
「その医者は、涼子を治せるのですか?」
 一番気になっていることを聞いた。
「・・・さぁな。それが、その医者は何も言わないんだ。ただ、『その患者を連れて来い』とだけしかな。変な奴だが、腕は確かだ。オレはそいつ以上の医者を知らん。そいつに手に負えない病態だとすると、世界中の医者も無駄だと考えていいだろう」
「・・・すぐに向かいます。場所はどこですか?」
「場所はアメリカだ。詳しい地理はアルマに伝えてある。・・・坊主、嬢ちゃんが治るよう、願ってるぜ」
「・・・ありがとうございます。あなたたちには、本当に感謝しています」
「礼はハッピーエンドになってからにしな。もしそうなった暁には、うちの店でパーティーでもやろうぜ」
「はい、その時を楽しみにしています」
 九条は最後にそう言って通話を終了させた。「ルネさん、ありがとうございます」
 携帯を返すと、すぐに涼子と向き直った。
「涼子、まだ可能性がない訳じゃない。すぐにアメリカに発とう!」
「・・・うん・・・」
「涼子?」
 そこで涼子の様子がおかしいことに、九条は初めて気付いた。何やら視線が定まらない瞳で朦朧とこちらを見ている。寄り添い、もたれ掛かっているから大丈夫だが、下手をすると倒れこんでしまいそうだった。
「あれ・・・おかしいな・・・。何か頭がボーっとして・・・うまく・・・た・・・てない・・・」
 ふっと倒れそうになる涼子を支え、九条は彼女を抱きかかえた。
「涼子、しっかりしろ・・・。今すぐ、医者に見せてやるからな」
「うん・・・ありがとう・・・」
 九条はすぐに目の前のルネたちに向き合い、一斉に走った。
「早く、アメリカへ!」

『始まった絶望』 完
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