『闇の中の光』

 東明小学校。それが涼子の義母、あかりの勤め先だった。
この学校は校舎が2つあり、中庭を挟むようにしてそれが建てられている。近所には田んぼが並び、子どもたちはそこでザリガニやオケラを見つけては楽しんでいる。いかにも、田舎の風景という感じだ。だがその周囲は緑に溢れ、その自然いっぱいの風景には心が和む。職員室前の花壇には、この時期立派なヒマワリが咲き誇る。そこからの景色を眺めつつ、あかりはパソコンのキーを叩いていた。夏休みといっても、教師たちで分担して学校に通わなければならない。今日はあかりの担当日だった。
 あかりはキーを叩いている手を休め、ため息をついて目頭を押さえた。
「水無月先生、大丈夫ですか?」
 同僚の佐橋が心配して聞いた。「休み明けのテスト作りも大変ですが、身体を壊さない程度にしてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
 あかりは強い口調でお礼を言い、再びパソコンの画面に目を止めた。その時、職員室の扉が開き、自分が担当しているクラスの女の子が顔を覗かせた。
「あかり先生ー」
「あら、どうかした?」
 あかりは突然のお客に笑顔を向け、歩み寄った。そして入り口近くまで来て、別の訪問者がいることに気がついた。
「先生、この人があかり先生と話がしたいって」
「そう、案内してくれたのね。ありがとう」
 あかりは女の子に礼を言って、再び訪問者の顔を確認した。「…私に何か話ですか、九条さん?」
「はい、お聞きしたいことが…。今、大丈夫ですか?」
「そうね…。佐橋先生! 少し抜けても大丈夫ですか?」
 あかりは振り向いて同僚の顔を確認し、どうやらお許しが出たようだ。「大丈夫みたい」
 九条とあかりは女の子と離れ、少し校舎を歩いた。
「…それで、何を聞きたいのかしら?」
 前を歩くあかりは、九条に背中を向けながら聞いた。九条は一呼吸置き、思い切って聞いた。
「涼子…さんのことです」
「…そう」
 あかりは小さく呟く。そのあかりの雰囲気は、自分が何を聞きたいのかすでに察知しているようだった。しかし、いくら待っても何も話そうとしないあかりに、九条は疑問に思っていることをぶつけた。
「…単刀直入に言います。オレは、涼子…さんの身に何かが起こっていると思っています。それも、涙を流すほど哀しいことが」
 不意に海での出来事が思い浮かぶ。葵が涙を流した瞬間を…。「あの人は惚けているようだけど、オレは確信しています。何か言いにくいことを隠していると。あなたなら、何かご存知なのではないですか?」
 しばらくあかりの反応を待ったが、何も言い返してこない。九条は続けて語った。
「…オレは、約束したんです。あなたの姉、由香里さんと、良司さんに! あの人を…守っていくと誓ったんです。だからお願いします。涼子の身に何が起きているのか教えてください!」
 興奮し段々と声が大きくなっているのに気付いて、九条は一度ため息をついた。
「…涼子は」
 あかりがようやく口を動かした。「涼子は何も言っていないのでしょう?」
「…はい」
「だったら私からは何も教えられません。あの子がそれを望んでいるのなら尚更です」
 あかりは振り向き、九条に向き合った。「…もちろん、九条さんには感謝しています。九条さんのおかげであの事件も時効前に解決し、あの子達も明るくなりました。だけど…これは涼子のためなんです」
「涼子のため? あの人が悩んでいるのに、泣きたいほど哀しいことがあるのに、それを黙って見過ごせというのですか? オレにはそんなことはできない。それにあなたは涼子の母親だ。実の母娘(おやこ)でなくても、あなたは涼子の母なんだ。子どもが苦しんでいるのです。あなたはそれを助けようとは思わないんですか!?」
 九条は目の前の無責任な女性に対し、腹が立ってきた。普段の自分なら、あかりのような目上の人にこんな口の聞き方は絶対にしない。それでもこの怒りを抑えることができないのは、今の何の情報もない自分ではあの人を助けることができないからだ。焦りから怒り。それは次第に無力感へと変わっていった。
「私だって!」
 あかりは不意に強い口調で叫んだ。「私だってあの子に幸せになって欲しい! だけど、私には助けることができない。だから…涼子のさせたいようにすることしかできないの…」
 段々と涙声になり、最後には崩れ落ちてあかりは涙を流した。何度も手で擦るのだが、悲しみの涙は後から後から流れ出ていく。
「あ…」
 そのあかりの姿を見て、九条は後悔した。この人が涼子を想わない訳がない。それなのに自分は、この人を最低とばかりに罵ってしまった。
「…申し訳ありません。言い過ぎました」
「…いいえ。あなたは、涼子の事を本当に考えてくれてるってわかってるから…。でも、ごめんなさい。私からは何も言えません」
 この人を、これ以上困らせてはいけない。九条はそう思った。
「わかりました。怒鳴ってしまって本当に申し訳ありません」
 九条は最後に一礼をすると、校舎を出て行った。

 学校の近くにあるコンビニに入り、お茶を購入して、それを一気に飲み干してゴミ箱に入れた。
「間違いない」
 九条はあかりの言葉を思い出した。「助けることができない。涼子のさせたいようにさせる」という行は、何か途轍もないものが近づいているように聞き取れる。「させたいようにさせる」などは、本人の望みを叶えさせてやりたい…だろうか。しかし、それではまるで、涼子本人が死んでしまうような言い方だ。確かに、両親殺害の事件を追うこととなったきっかけは葵からのSOSだった。しかしそれも、事件を解決してから発作も治まり、楽になったと涼子は言っていた。発作の原因は精神的なストレスではなかったのだろうか。自分にそういう医学的な知識がないから何とも断言しづらいが、それとは別に何か原因があったのではないだろうか。…それに、この自分の予想はただの勘に過ぎない。
「…涼子が死ぬ?」
 そんなバカな話があるものか。涼子はいつも自分の隣で笑っていたのだ。死を控えた人間が、そんな表情を出すのだろうか。しかし、九条はすぐに納得した。自分も、あの事件で命がけの賭けをした。大切なもののためなら、そういうことも有り得るのかもしれない。
 しかし、まだそうと決まったわけではない。九条はすぐに橘医院を目指した。
 途中、涼子から着信が入った。
「…涼子?」
「瞬君、今どこにいるの…?」
 心なしか、寂しそうに聞こえる。その声を聞き、九条はますます自分の考えてしまった仮説が色濃くなっていく気がした。
「…少し、用事があってね。何かあったか?」
「ううん、何もないけど…。顔を見たくなったから、瞬君をからかいに行こうかなと思ってね。今どこかな?」
「ははは、オレはオモチャか?」
「瞬君だって私のこと子ども扱いしてからかうから、おあいこだよ」
 違う。自分はこんなことを聞きたいんじゃないんだ。だけど、それを本人に聞く勇気がない。こうして無理して明るく振舞っているこの人に、「お前は死んでしまうのか?」などとは聞けるはずもない。
「ね、どこにいるのかな?」
「…まだ用事が終わらないから、その後でもいいか?」
「うん、時間は?」
「それじゃあ…3時間後に涼子の家に行くよ」
「うん、冷房入れて待ってるね」
 そして通話が切れた。九条はしばらく頭の中で涼子の声を反芻し、歯を噛み締めた。
…そんなバカな話、ある訳ないよな?
 九条は走り、橘医院へと向かった。どんなに苦しくても、どんなに苦しくても、立ち止まることなく九条は走った。そんなことよりも、「涼子の死」という可能性のある仮説が浮かび上がってしまっていることの方が、何百倍も苦しいのだ。
 九条は橘医院に到着し、息を整えることもせずに戸を開けて駆け込んだ。
「先生!」
 九条のその叫び声に、他の患者が何事かと一斉に振り向いた。「はぁ…はぁ…すいません、橘先生を!」
 受付の看護師が九条の勢いに驚き、一瞬後退った。
「あ、あの…どうかされましたか?」
「…橘先生に聞きたいことがある。橘先生をお願いします」
 周りにはまだ診察待ちの患者が何人かいる。今来たばかりの自分がこの医院唯一の医師と顔を合わせてもらうことなど、無茶としかいいようがない。それはわかっているのだが、九条は一刻も早く疑惑を拭い去りたかった。
 しかし、橘はそんな予想とは裏腹にすぐに診察室から出てきた。
「…そろそろ見える頃だと思っていました」
「…え?」
「こちらへどうぞ。大丈夫。今日は臨時でもう一人医師に来てもらっているので問題ありません」
 橘はそう言って、使用中の診察室とは別の客間を用意してくれた。九条は招かれた部屋に入り、椅子に座った。
「…オレが来ることは予想済みだったんですか? わざわざ臨時の医師を呼ぶほどですから、何日も前からですよね?」
「はい、そうです。そして君がここに来た理由もわかっているつもりです」
「それじゃあ、はっきり聞きます。涼子は…何か難しい症状にでもなっているんですか? それも、死の可能性がある病気を…」
 その九条の疑問を聞き、橘は椅子に座って俯いた。
「…そういう情報は、患者のプライバシーに関わります。本人、またはご家族の方の許可なしでは、第三者にお伝えすることは禁じられているのです」
 医者の立場からすれば、それは当然の処置だ。しかし、九条は納得がいかない。
「…涼子から話は聞いている。詳しい症状を教えて欲しい・・・」
「涼子さんから?」
「はい、だから教えてください」
 これは嘘。涼子からは何も話してくれないし、その母であるあかりもそうだった。しかし、こうして嘘でもつかなければ橘は何も話してくれないだろう。しかし、そんな自分の思考はもろくも崩された。
「嘘ですね?」
「え…?」
「涼子さんから話は聞いていないはずです。彼女たちはここに診察を受け、君には何も明かさないと私の前で宣言しました。それに、もし万が一話を聞いているのだとしたら、今頃君は彼女の傍を離れていないでしょう」
「・・・それはどういう意味ですか?」
「ですから、それは答えられません」
 橘は立ち上がって部屋の戸を開けた。「さぁ、私からの話は以上です。彼女の元にいって、最後まで傍にいてあげてください」
「…あの人は、もう助からないのですか?」
「…」
「何が原因かはわかりませんが、彼女はもう現代の医学では治すことはできない…ということですか?」
「…」
 橘は何も言い返さない。しかし、橘の目を見ればわかる。この無言は肯定なのだ。
「そして、オレにできることはただ一つ。残りの時間まで彼女を傍で支えることだけ…。そうなのですか?」
「・・・」
 どうやら、そういうことらしい。
「…彼女の時間は…もう残り少ないのですか?」
「…」
「・・・そうですか。わかりました」
 自分は、あの人を助けることができない。医術をこれっぽっちもかじっていない自分には、こればかりは畑違いだ。医師である橘が現代の医学では治せないという。もう、何も解決法が浮かばない…。
 涼子が…死ぬ?
 不幸な過去も乗り越え、そしてようやく未来に向かおうとしている涼子が、死ぬ?
 そんな残酷なことがあっていいはずがない。このまま死んでしまっては、一体彼女は何のために生まれてきたのだ。家族を無くすというこれ以上ない不幸を味わい、そして今また命を落とそうとしている。彼女は、不幸を味わうために生まれてきたのではないのだ。まだ…諦めてはいけない。例え涼子本人が諦めても、例え母が諦めても、例え医師が諦めても、それでも自分は諦めてはいけない。
 だってオレは、あの人と離れたくないのだから―
 九条は立ち上がって橘に一礼した。
「まだ、オレは諦めません」と言い残して…。

『闇の中の光』 完
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