『護りたいもののために』

 『ブラッドコブラ』本社。
それは一人の青年の勇気ある行動により、現在9割の構成員が国際警察の手によって捕らえられ、残りも私たちのような存在によって、その姿を消していった。彼らはとても信じられない思いだろう。中国マフィア市場でトップ3に入る巨大組織が、僅か20にも満たない青年の手によって瓦解したのだ。今回の事件など、ダムの崩壊を思わせる。青年が残した小さな傷からあたかも決壊するように、組織は崩れていった。
 ミッシェル・W・クロードは言っていた。「あいつは、それを失っていた私に正義の信念を教えてくれた」と・・・。それは、私たちも同じ思いだった。私たちはこの世界にいながら、自分たちの気に入らない依頼は絶対に受諾しない。一般人に危害を加えることは絶対にしない。それは、自分たちに戦闘方法を教えてくれた渡瀬の揺るがすことのできない絶対のルールだった。この世界にあって、甘さをもつ集団。それが私たちだった。あの青年の行動は、私たちのルールを破り、更に崇高で、更に強固なものにした。渡瀬に言われたからその行動をとるんじゃない。自分の胸中に浮かび上がってくる「正義」を貫き通すため、私たちは今日も行動する。
「ルネ、どうした? そんなにボーっとして」
 仲間のアルマの声で、ルネは顔を上げた。隣では、自分を心配そうに顔を向けるアルマの姿があった。「疲れでも溜まっているのか?」
「Je n'ai pas tout probleme・・・問題ありません。ちょっと考え事をしていただけです」
「・・・それならいい。どうせまたあの青年のことでも考えていたのだろう? 確かに彼の行動力と判断力は私も驚いた。あの若さですでにこの世界で必要なものを備えている。一般人にも関わらず・・・だ」
「そうですね。彼にもう少し武器の扱い、武術が備われば、私たちにも匹敵します」
「そうなったら心強い味方だな。だが、クロードさんも言っていた。彼はもう元の平和な生活に戻った。そんな彼に、再びこの世界に関わらせることはない。そうだろう?」
「わかっています」
 ルネは紅茶が入ったカップを置き、窓の外を眺めた。「それにしても、この国の夏というのは暑いですね」
 彼らはブラッドコブラ壊滅のためにクロードや渡瀬らと共に中国に出向き、全てが終わり、再び青年のいるこの日本へとやってきたのだ。渡瀬の話によると、逃げ延びた構成員が万が一、九条を襲わないとも限らない。それとなく見守る。それがルネとアルマが課せられた次なる指令だった。
 窓の外を見ると、ビーチにはたくさんの人で賑わっている。
「・・・彼女、どうかしたのかしら?」
 ルネは海辺に立つ九条たちの姿を捉えて言った。心なしか、涼子の方は泣いているようにも見える。手で顔を覆い、俯いている。
「・・・ケンカか?」
「いえ、そうは見えないわね。ソニードがいれば会話も聞けるんだけど・・・」
 ルネは難しい顔をして立ち上がり、「ここの支払いよろしくね」と言って店を出て行った。

「…葵、どうかしたのか?」
 九条は目の前で急に涙を流し始めた葵に心配になって聞いた。直前まで楽しそうな表情を浮かべていた彼女が、一転してこの状況だ。九条は訳がわからず葵の前で悩んでいる。
「…ううん。別に…何でもない」
「何でもないのに泣くことなんてないだろう」
 彼女は手で顔を覆っているが、その間から涙が滴り落ちるのが見えた。「…何か、困りごとか?」
 九条のその言葉に、葵は頭を横に振って九条の手をとった。
「…本当に何でもない。ちょっと寝不足で欠伸しただけだから・・・」
 葵はそう言うと、九条の手を引っ張り、海水へと浸かった。彼女はザブンと潜り、海底へと泳いでゆく。それを見て九条も海中へと身を沈めた。視界には透明度の高い海中の景色が広がっている。それを、葵はどんどん奥へと進んでゆく。九条はそれを見て危惧した。このまま彼女がどんどん泳いでいき、自分には手の届かない遠い場所に行ってしまうような、そんな不安を抱いた。九条は慌てて交互に動かす手足を早め、葵に迫った。そしてようやく葵の腕を掴み、海面へと顔を出した。
「はぁー…はぁ…葵、どうしたんだ?」
「何でもない。ただ、思いっきり泳ぎたくなっただけだから…」
 九条にはそうは思えない。涙を誤魔化すために海中に潜ったとしか思えなかった。この人は何かを隠している。それも、涙を流すほど哀しいことを…。
「…それじゃ、私もそろそろ変わるね。十分楽しめたから…」
「待ってくれ、葵! まだオレはお前に聞きたいことが…」
 九条が叫ぶと、葵は俯いて彼の胸に顔を埋めた。「…葵?」
「…瞬には…感謝してる」
 そうして彼女は目を閉じた。「…瞬君?」
 彼女は目を開けると、目の前にいる九条の顔を見上げた。
「瞬君って意外と大胆?」
 九条はそこで今の自分の姿勢に気がついた。葵が顔を埋めてきたため、自然に抱きかかえるポーズをとってしまっている。九条は顔を赤らめ、慌てて彼女の肩に触れていた手を離した。
「い、いや…これはその…不可抗力で…」
 九条は戸惑って顔を左右に振るが、それを見て涼子は楽しそうに笑った。
「葵と何してたのかなぁ…怪しいなぁー」
 涼子は戸惑う九条に顔を近づけて更に詰寄る。「瞬君、奥手だと思ってたけどそうでもないのかなぁ? 私も気をつけないといけないね」
「いや、そんな…。中学生に手を出すようなマネは絶対にしない」
「なにをー!」
 涼子は彼の手を引き、海中へと引きずり込んだ。「えい!」
 水しぶきが舞い上がり、海中ではいつまでも涼子がこちらを見つめていた。涼子はニコリと笑い、九条に抱きついた。明るい海中で波に揺られながら、苦しいのも忘れ、いつまでも漂っていた…。

 時間が経つのも忘れ、気付くと西の空は茜色に染まっていた。
「涼子、そろそろ身支度して帰ろうか」
 海面から顔を出して九条が言う。
「うん、そうだね…」
 楽しい時間が終わってしまう。なぜ楽しい時間はこんなにも短く感じてしまうのだろう…。もっとこの人の傍にいて、もっと色んな物を見ていきたいのに、私にはそれもすることができない。私にできることは、残りの短い時間をこの人の傍で送ることだけ。
 涼子は浜辺にあがると、急な目眩に襲われた。
 ダメ! ここで倒れてはダメ!
 涼子は自分にそう言い聞かせて、必死に踏みとどまった。ここで倒れてしまっては、この人に気付かれてしまう。それは絶対にイヤだ。
「…どうかしたか?」
 前を歩いていた九条が振り向いた。その場で立ち尽くしている自分を心配してくれている。
「…ううん。何でもない」
 涼子は無理に笑顔を取り繕い、脱衣室へと駆けて行った。その後姿を見て、「…何でもないようには見えないな」と九条は呟いた。
 シャワーで海水を洗い流すと、九条の脳裏にある言葉が浮かんだ。
「…まだ、終わっていない」
 九条はそんな気がした。何かはわからない。でも、何か気に入らないものが胸中に渦巻いている。このままでは、何か途轍もないことが起こりそうな、そんな気がするのだ。そしてそれは間違いなく涼子たちに関係している。あの事件以降、彼女たちは明るく接してくれる。多重人格症状は治っていないが、彼女たちもそれなりに幸せな毎日を送っている。少なくとも、自分にはそう見える。でも、何かを見落としている。それは、一体何なのだろう。
「あいつが考えそうなこと…」
 そんな疑問を抱きながら着替えを終え、ビーチから海を眺めていた。涼子は何を考えているのか、そのことだけが頭の中を駆け巡る。そして、一つの結論に辿りついた。
「瞬君」
 涼子に声をかけられ、九条は振り返った。そこには、さきほどの辛そうな表情など微塵も感じられない涼子の顔があった。「…少し、散歩しない?」
 涼子は九条の手を掴み、微笑みながら波の音が響く海辺を歩いた。ザザーン、ザザーンと波音が耳を刺激し、潮の香りが鼻をくすぐる。
九条は何も言わず、涼子の横顔に目を向けた。確かに笑ってはいる。しかし、その微笑みはどこか儚く見える。九条は思い切って聞いてみた。
「涼子」
「ん、何かな?」
「…何か、オレに隠していることがあるだろう」
「え…」
 涼子は九条の顔を見上げて哀しげに映る瞳を向けた。
「何を隠している?」
「ん〜…何か隠してるのかな? …うん、多分何もないよ」
 ここまできてもシラを切る涼子に対し、九条は苛立ちを感じた。しかし、その気持ちを何とか押さえて振舞った。
「それならいいです」
 今この人に何を聞いても、絶対に隠している内容を話したりしないだろう。それならば、自分で調べるまでだ。この瞬間、九条の頭の中には義母であるあかりと、今岡、橘、そして大学の友人たちの顔が浮かんでいた。彼らに話を伺えば、何かわかるかもしれない。
 九条は茜色に輝く夕空を見つめ、ゆっくりと瞳を涼子に移した。
 …そう。この危惧がただの勘違いならばそれでいい。だがもしも何かあるのならば…。
「守ってやらないとな」
 九条は涼子に聞かれぬよう、小さく呟いた。

『護りたいもののために』 完
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