『Ein Satz』

 暑い日ざしが容赦なく眼下を照らす。
身体中から汗が吹き出し、片手に持っている扇子程度でこの暑さを凌ぐことはできそうにない。ここに来る途中で見かけた、アスファルトでミイラ化したミミズを見て、余計に倦怠感を覚えた。
 朝テレビで見た予報によると、この夏は特に暑くなるらしい。今日は確実に気温が35度を上回るだろう。30度以上の場合は「真夏日」というが、35度以上になると「酷暑日」と呼ばれるらしい。全く字の通りに酷く蒸し暑い。まるでサウナでも入っているかの気分だ。ある記事で、酷暑日に歩道にフライパンに卵を割って入れ、蓋をして2〜3時間放置しておくと、目玉焼きが出来上がるのだそうだ。そんな長時間放置した物を食べる気にはならないが、これを人に置き換えてしまうと冗談にもならない。熱中症で倒れないように気をつけよう・・・。
 駅で10分ほど待つと、涼子が走ってやってきた。暑さのせいか、なかなかにラフな格好をしている。
「はぁー・・・お待たせ、瞬君。今日も暑いね」
「・・・それじゃ、行こうか」
「うん!」
 九条はカバンを背負い、切符を購入して電車内へと入った。電車内はひんやりと冷房が効いている。今までかいていた汗が引き、心地よい。すぐ近くの空いた座席に座り、涼子もその隣に腰を下ろした。
 夏休みシーズンのせいか、妙に家族連れが多い。やはり、目的は同じなのだろう。
「今日行く海水浴場ってどこ?」
 涼子が興味津々に聞いた。
「そうだな・・・。内海海水浴場って場所。水質がすごいきれいって話だ」
 九条は少し前に見た情報誌を思い浮かべた。シーズン中は10万人近い人で賑わう県下最大級の海水浴場。千鳥ヶ浜海岸の水質は、「日本の渚百選」に選ばれるほどきれいと紹介されていた。人ごみは苦手だが、たまにはそういうきれいな場所に足を運ぶのも悪くない。
「へー、楽しみだなぁ」
「そうだな」
「私の水着姿も?」
「そうだな」
 適当に受け答えしていた九条は、しばらく経って気付き、慌てて誤魔化した。「い、いや・・・その・・・そう。ソーダが飲みたいですね!」
 その慌てぶりを見て、涼子は「無理があるよ」と笑った。
 しばらく電車に揺られ、涼しい心地の良い空間を堪能していると、目的地の内海駅へと到着してしまった。これからまた灼熱の太陽の下へ出るのだと思うと、自然に歩幅が小さくなる。
「ほら、瞬君」
 しかし、九条は涼子に手を引かれて観念した。車内を出ると、一瞬で汗が吹き出す。
「・・・暑い」
「だって夏だから仕方ないよ。ほら、行こう」
 この暑い日に、元気なことだ。涼子は楽しそうに九条の手を引く。
駅を出て、九条は近くの自販機で飲み物を購入した。そしてさっそくキャップを開け、3分の1ほど飲んで水分を補給する。
「はぁー・・・生き返った」
「あはは、大げさな」
 その大げさなリアクションをする九条を見て、涼子は笑った。「私もちょうだい」
 九条の手からペットボトルを取り、涼子はゴクゴクと喉を潤した。
「お、おい・・・ちょっと」
「ん、何?」
「いや・・・何でもない」
 九条は軽く赤面して立ち上がった。「さ、さぁ行くか」
 自分が飲んだ物を涼子も続けて飲んだ。これは間接的な口づけになるのだろうか。九条は妙に恥ずかしい気持ちを抱き、ビーチへと歩いた。
「あ、待ってよ」
 それを見て、涼子も後を追う。

 駅から15分ほど歩き、ビーチへと到着した。やはり案の定、たくさんの人で賑わっている。
2人は別れ、脱衣室へと入った。
「お兄ちゃん、脚大丈夫?」
 着替えていると、隣で男の子が心配そうに覗き込んできた。何事かと思ったが、どうやら両脚に残った被弾の痕を心配してくれているようだ。確かに、もう痛みはないが痕は残ってしまっている。しかし、端から見ると痛々しく見えてしまうのだろう。
「うん、大丈夫だよ。心配してくれてありがとうな」
「そっか、良かった」
 男の子はニコリと笑ってお父さんと一緒に浜辺へと走っていった。
 ・・・こうして見ると、銃弾の痕というものは目立つ。それが両脚と左腕の3箇所もあるのだから余計だろうか。しかし、あの事件に臨んだことに対して後悔はない。
 九条は着替えを終え、荷物をコインロッカーへ放り込むと、ビーチへと出た。どうやら涼子の方はまだ着替えを終えていないようだ。九条は仕方なく日陰に入り、彼女が出てくるのを待った。やはり、女の支度というものは時間がかかるものなのだろうか。そんなことを考えていると、涼子が脱衣室から出てきた。
「あ、瞬君。お待たせ」
「荷物はちゃんとコインロッカーに預けたかな?」
「もう、ちゃんと入れてきたよ。また子ども扱い?」
「ん、はは・・・」
 九条は笑って海へと歩き出した。しかし、それを涼子が手を取り、引き止めた。「どうかした?」
 涼子は九条を恨めしそうな目で睨んでいる。
「・・・何か忘れてない?」
「・・・? 何かあるか?」
 涼子はため息をついて九条の手を取って海へと入った。「・・・涼子?」
 海水を腰までつかり、涼子は九条と向き合った。
「まぁ、瞬君にそんな言葉期待してなかったけど」
「言葉?」
「・・・バカ」
 涼子はそう言うと、ゆっくりと目を閉じた。「あ・・・30センチ以内に近づいてる」
「え?」
 九条は驚いて後退った。「・・・杏か?」
 どうやら何か気に入らないことでもあったのか、杏とチェンジしたらしい。
「・・・何か怒らせるようなことしたの? 九条瞬」
「さぁ・・・。オレにもわからん」
「・・・まぁ、いいや。せっかくだし、九条瞬、遊んで。その代わり30センチ以内に近づかないで」
「・・・難しいな」
 九条は苦笑して、しばらく杏と海で遊んだ。
 しばらくすると小腹が空いてきた。丁度昼時だし、この辺りで昼食にしよう。
「杏、昼ごはん食べに行くか?」
「あ・・・うん。でもそろそろ交代の時間」
「交代の時間?」
「そう。皆で話したの・・・。今日は皆で楽しもうって」
 杏は目を閉じ、ゆっくりと目蓋を上げた。「・・・」
「・・・えっと・・・誰ですか?」
「・・・ふぅ。勉強もせずにこんな場所で遊んで・・・今日は特別ですよ」
 間違いない。これは百花だ。こんな海に来てまで「勉強」という単語を聞かされることになるとは思ってもいなかった。
「はは・・・、それじゃ浜に上がって昼食とるか」
 2人は浜辺の飲食店へと入り、メニュー表に目を通した。
「それじゃ、オレはラーメンで」
 こういう場所で食べるラーメンは、やけに美味く感じる。傍にある海から漂う潮の香りのせいだろうか。しかし百花は、ラーメンはあまり体に良くないということで無難にチャーハンを注文した。
「ラーメンばかり食べないようにしてくださいね?」
「はいはい。百花は細かいことにこだわり過ぎだよ」
「・・・追加します」
「え、何を?」
 百花は九条をじっと睨み、「帰ったら勉強時間を5時間」と言った。それを聞き、九条は顔を伏せた。
「・・・ごめんなさい」
「はい」
 涼子や葵、杏の対応には慣れたが、この百花にはどうも勝てそうにない。外見は中学生だが、彼女たちの中で一番大人なのは百花だろう。そのためか、この人だけはやけに年上のプレッシャーを感じてしまう。
 しばらくし、ラーメンが九条の前に置かれた。やはり、潮の香りも相まって、食欲をそそる。丁度同時に百花の下にチャーハンも置かれ、2人は箸をとって食べ始めた。
「うまい!」
「美味しいですね」
 2人は顔を見合わせ、互いに笑った。九条は続けて箸を動かし、5分程度で完食した。目の前を見ると、百花はまだチャーハンの半分も食べていなかった。こうして見ると、ゆっくりと上品に食べている。この調子では、あと15分はかかりそうだ。九条は続けてたこ焼きを注文し、それを食べ終わる頃にようやく百花も完食し終えた。
「それじゃ、私もそろそろ変わりますね。葵がすごく出たがってますから」
「葵が?」
「ええ。あの子、強がって見せてるけど私たちの中じゃ一番子どもですから」
「・・・はは」
 九条は苦笑した。初めて顔を合わせた時には「冷静」というイメージをもっていたが、その言葉は百花にこそ相応しい。と、いうよりも、葵の理想像が百花のように大人びた女性なのかもしれない。そういう女性になりたいから、そうなれるように振舞っていたと今ではわかる。
 百花は目を閉じた。
「・・・葵?」
「・・・何?」
「無理して冷静ぶらなくてもいいぞ」
「ち、違う! 別にそんなことしてない・・・」
 葵は顔を赤らめて否定した。
「あ、カキ氷食べるか?」
「え・・・別にどっちでもいい。でも・・・瞬が食べたいっていうなら・・・一緒に食べてもいいかな・・・」
 全く、素直じゃない。九条は「それじゃ、一緒に食べるか」と笑ってカキ氷を2つ注文し、片方を葵に渡した。
「いちごでよかったよな?」
「うん、いちご味好きだから」
「だと思ったよ」
 子どもっぽい葵なら、子どもが一番好むいちご味を所望していると何となくだが感じた。それを一口食べ、幸せそうな顔を浮かべている葵を見て、九条はいつまでも飽きずにその表情を見つめていた。

 私、まだまだ子供だなぁ・・・。
涼子は意識の奥で苦笑した。あんな些細なことで機嫌を損ねてしまうのだから。でも、彼も悪いんだ。
「普通、女の子と一緒に海に来たら、水着姿褒めるよね?」
 涼子は正面にいる杏に力説した。
「・・・九条瞬は無理だと思う」
 杏は淡々と答える。涼子も、それはわかっているつもりなのだが、一言「似合ってる」という言葉が欲しかった。頬を膨らませている涼子に、百花は彼女の肩を軽く叩いた。
「涼子。それでも、軽薄な人よりはずっといいと思いますけど・・・。それに、そういう所も彼の魅力だと思いますよ?」
「あ、百花ってもしかして瞬君のこと・・・なの?」
「その・・・まぁ、私はあなたですから・・・好みも一緒ですよ」
「うぅ・・・手強いライバルだぁ・・・」
 涼子は頭を抱えて云々唸っている。それを見て、杏も百花も顔が綻んだ。次第に、涼子の顔から笑顔が消えた。「・・・もう、1ヶ月もないんだね。でも、少しでも瞬君と一緒にいれて・・・幸せだった・・・よね?」
 涼子は自分の胸を押さえた。例の発作は治まったが、昔の傷の後遺症で生体を維持する臓器や器官の働きが低下しているらしい。医者の橘は「・・・力になれなくて本当に申し訳ない」と涙を流して謝っていた。今の自分の身体を治すことは、現代の科学医療では見つかっていないのだそうだ。
 その死の宣告を聞かされたときは、もちろんショックだった。事件も解決し、九条も戻ってきた。そして告白し、両想いになり、傍にいられるようになった。その直後のことだった・・・。自分は、神様に嫌われているのだろうか。なぜ、自分だけがこうも不幸なのだろうか。そんな恨めしい感情が、後から後から浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。しかしその死の宣告については、九条には話していない。話したらきっとまた、私のために無茶をする。今のところ助かる方法がないのだけれど、それでも彼は必死で私を助けようとするだろう。だけどもう、あんな思いはしたくない。あの人には、もうあんな危ない目に遭ってほしくない。それだけが涼子の望みだった。「自分はどうなってもいい」と涼子は葵たちに話した。彼女たちも、それに賛成した。あの人は自分の命の恩人なのだ。自分の無茶な生への渇望のせいで、彼に無理をさせることはない。
 あの人は、私のために泣いてしまうだろうか。何も話さなかった私を、恨むだろうか。・・・彼が傷つくくらいなら、恨まれたほうがまだいい。その方が、私が彼の傍から消えてしまっても悲しみを背負うことはないだろう。
「・・・ごめんね、瞬君」
 涼子、杏、百花は互いに共感したのか、皆涙を流し、九条の笑顔を思い浮かべていた。
 宣告日まで、残り20日―。

『Ein Satz』 完
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