『トオルorマモル』

 夏が終わり、新学期を迎えた。
久しぶりに学校に行くと、真っ黒に日焼けした生徒たちが目を惹く。自分も、海などには行っていないが、少しは焼けているのかもしれないと、七海は自分の腕を見た。
「お兄ちゃんはどっちがいいのかな?」
 健康的な小麦色が好きだろうか。それとも、美白が好きなんだろうか。なるべく、あの人の好きなタイプになれるようにしたい。直接会ってどちらが好みか聞いた方が早いのだろうが、そんな恥ずかしいこととても言えるはずもない。
「・・・お兄ちゃんと一緒に行った夏祭り・・・楽しかったなぁ」
 七海はなにやら妄想に耽っている。
「・・・あんた、今年は勉強三昧で夏祭りは行ってないんじゃなかった?」
「あ、明日香ちゃん、お早う。いいの! だからこそ頭の中で楽しんでるんだから」
「あ、ああ・・・そうなの」
 明日香は呆れて自分の席に座った。「で、今どんな場面?」
 明日香がそう聞くと、七海は目を輝かせて語った。
「えっとね、夜なんだけどね、私はお兄ちゃんに手を引かれて一緒に歩いてるの。私は浴衣なんだけど、途中で鼻緒が切れちゃって・・・。でもお兄ちゃんは優しく笑って私を背負ってくれるんだ」
 どうやらもう完全に夢の世界に突入しているらしい。逆に、その願望丸出しのセリフに明日香の方が恥ずかしくなった。
「あ、もういいわ。うん、後は自分で楽しんでなさい」
 明日香は苦笑して後退った。全く、大した想像力だ。しかし現実は声をかけるのも億劫だという体たらく。周りから見ればちょっと変な子だが、本人は幸せそうなので別にいいか・・・。
 明日香はため息をついて教科書を開き、自主勉強にとりかかった。今はこの子のことより、自分のことだ。第一志望の高校の試験日まで、後2ヶ月もない。何とか推薦枠に入ることはできたが、自分もそう勉強が得意な訳ではない。勉強が得意でない自分が上の高校を狙うには、日々の積み重ねが重要となる。しかしそれでも、未だ合格率60%と微妙な数字だった。
「・・・私も・・・一緒の高校行きたいんだけどなぁ・・・」
 明日香はぼそっと呟いた。聞こえないように呟いたつもりだったのだが、七海は興味津々に振り返った。
「え? 誰と行きたいの?」
「え・・・その・・・何でもないわよ」
 明日香は慌てて誤魔化した。「そんなことより、ナナも勉強しなさいよ」
「でも・・・やる気が起きなくて・・・」
「・・・それじゃ、伏見先輩に教えてもらってるって想像してみたら?」
「うん、私頑張るよ!」
 七海は素早く勉強にとりかかった。途中顔が綻んで見えるのは、また余計な事でも妄想してしまっているのだろう。現実でもそんな積極性を持って欲しいものだ。
「・・・相変わらず・・・か」
 明日香はその横顔を見て、楽しそうに笑った。

 授業が終わり、七海は急いで帰り支度を整えた。
「ナナ、今日もコンビニに寄って帰るの?」
「え・・・うん、そのつもり・・・」
 一途なものだ。
「告白しないの?」と明日香は言おうと思ったが、受験戦争真っ只中の今の時期に振られて落ち込まれるのは得策でないと判断し、首を横に振って言い留まった。
「そう。ほどほどにね」
 明日香は苦笑して立ち上がった。
 2人は下校途中で別れ、七海は今日もそこにやってきた。
 あの人が待つコンビニへ。(正確には待っていない)
今日もあの人は一生懸命働いて・・・いなかった。外から覗いてみるが、どこにも蒼太の姿はない。七海はそこで初めて「まだ大学だ」という事実に気がついた。
「そっか・・・。夏休み終わっちゃったんだもんね。お兄ちゃん、いつ来るのかな?」
 1時間後だろうか。それとも2時間以上かかるのだろうか。長い時間暑さに耐えながらコンビニの前で立っているわけにもいかないし、七海は肩を落としてため息をついた。
「・・・帰ろ」
 やっぱり、1日に1回は憧れの「蒼太お兄ちゃん」の顔を見ないと元気が出てこない。目蓋を閉じれば、こんなにもはっきりとお兄ちゃんの姿が浮かぶのに・・・。しかしその姿を浮かべてしまうと、「会いたい」という気持ちがどんどんと膨らんでくる。もはや七海にとって、受験勉強など些細な問題だった。
「ん、岩戸か?」
「・・・お兄ちゃん」
「岩戸?」
「お兄ちゃん」
「岩戸!」
 男が七海の前に立ちはだかり、進路を塞いだ。「無視すんな!」
 そこで七海は初めて男に気がついた。お兄ちゃんのことばかり考えていて、この目の前の男に全く気がつかなかったのだ。
しかし、七海の反応は・・・―
「・・・誰?」
 であった。それを聞き、男は憤慨した。
「おい、同じクラスの桐沢守(きりさわ まもる)だ! お前、ボケか? ボケてるのか?」
 この男の怒りももっともだろう。何せ半年以上経ってクラスの仲間の顔さえ覚えていないのはあり得ない。それが守にとって少なからずショックだったのだ。しかし、その怒りが七海に届くことはなかった。相変わらずポーとした表情で「あ〜・・・そんな人もいた気がする」と一言。
 七海にとって男はお兄ちゃん以外眼中にない、とでも言わんばかりの勢いだ。
「あー・・・お前と話してるとイライラするな。・・・まぁいい。岩戸、コンビニの前で何してたんだ?」
「トオルには関係ないよ」
「マモルだ!」
「あ、お兄ちゃん!」
 守の叫びを無視し、向かいの車道から車に乗ってやってくる蒼太を見つけて、その車の後を追ってコンビニに向かって走った。その場に置いてけぼりをくらった守はしばらく呆然としていたが、ため息をついてコンビニに向かって歩き出した。
 蒼太が車を従業員用の駐車場に停めたのを確認すると、七海はコンビニの入り口で何事もなかったかのように立っている。少しして、蒼太がやってきた。
「や、七海」
 蒼太が七海に気付き、手を振っている。
「あ・・・、お兄ちゃん。その・・・偶然だね」
「そうだね。七海は今学校の帰りかい?」
「うん。それで、何かついでに買って行こうかと思って・・・」
 守の時とはえらく対応に差がある。
「そうか・・・。本当は学校帰りの買い食は褒められたものじゃないけど、いいよ。ジュースくらいならボクが買ってあげるよ」
「え? でも・・・お兄ちゃんに悪いし・・・」
 七海は俯いた。
「そんな遠慮することないよ。さ、おいで」
 蒼太は戸を開けてコンビニの中へ入っていった。そこでようやく守が七海の元に到着した。
「あれ、誰だ?」
「お兄ちゃん」
「お前の兄ちゃん? 何だ、兄ちゃんを待ってたのか。まぁいいや。オレもついでに何か見てこよ」
 守はそう言って店内へ入る。七海も後を追った。9月といってもまだ残暑が残る。店内に流れる冷房の風が心地よい。店内を見渡し、蒼太を見つけると七海はそこに向かって走った。
「お、七海。飲みたい物選びなよ。何が欲しい?」
 蒼太はすでに自分用のを選んで手に持っている。七海は「欲しいもの」を聞かれ、ちらっと蒼太の顔を見上げた。「欲しいものはお兄ちゃん」などとは言えるはずもない。「何で、コンビニには伏見蒼太が売ってないんだろう。もし売ってたら、貯金をはたいても買ってしまうのに・・・」などと、非人道的なことさえ考えてしまっている。
「それじゃ・・・コレ」
 七海は一本のペットボトルを選び、それを蒼太に渡した。
「ん、わかった」
 蒼太は顔を上げ、店内に七海と同じ中学生がいることに気がついた。「あの男の子、七海と同じ中学だね。知ってる子かな?」
 七海は蒼太の視線の先を見た。そこには守が本を読んでいる。
「ううん・・・知らない人」
「そうなのか? ネームの色が一緒だから同学年だと思ったんだけど」
 蒼太は七海の青いネームを見た。この中学では学年ごとに青・赤・緑に分けられている。本を読んでいる男の子も青いネームをしていたから同学年だと思ったのだが、それは七海に聞いたのが間違いだ。
 守は聞き耳を立てていたのか、「知らない人」と言われて本を置き、七海の元へ大魔神よろしく向かってきた。
「おい、さっき名前言っただろう! 同じクラスなのにいい加減覚えろよ」
 そう怒る守を見て、七海でなく蒼太が驚いた。
「何だ、七海。同じクラスなのか」
「あ・・・うん。思い出した。トオル」
「マモルだ!」
 その二人のやり取りを見て、蒼太は苦笑してしまった。
「ははは、そうかマモル君。せっかくだ。君にも何か飲み物を買って上げるよ。選びなよ」
 七海に怒鳴り、息を切らしているトオル、いや守の視線の高さに合わせて優しく蒼太は言った。「そんなに怒鳴ったら、喉渇いたろう」
 それを聞き、守は冷えたコーラを取り出した。
「それじゃ・・・これをお願いします」
「うん、わかった。2人とも、レジの方においで」
 蒼太は守からコーラを受け取り、それを持ってレジへと向かった。その後を、2人が続く。
 レジでお金を払っている蒼太の隣で、守がそっと聞いた。
「あの・・・こう言っては悪いんですが、妹さんって少し天然入ってますか?」
 それを聞いて蒼太は苦笑した。
「妹・・・ね。ちょっと天然かもしれないな。でも、大人しくて素直ないい子だよ」
 会計を済ませ、七海と守にジュースを渡した。「はい、どうぞ」
「素直」かどうかは守には疑問だが、この蒼太の優しい表情を見ると何も言えなくなった。「ありがとうございます」とジュースを受け取り、七海の顔を見た。蒼太の手から、ジュースを俯きながら恥ずかしそうに受け取っている。
 2人は蒼太に別れを告げ、コンビニを出た。
「なぁ、お前のお兄さんっていい人だな」
 コーラの蓋を開け、守はそれを一口飲んで言った。隣にいる七海を見ると、まだ何かの余韻に浸っている。大方、まだ「兄」のことでも考えているのだろう。それを見て、守は「これがブラコンか」と呟いた。妹が兄をそんなにも想う気持ちは守には理解できないが、七海の嬉しそうな顔を見ると、どうでもいいように思えた。
「まぁ、いいや。それじゃ、オレは家こっちだからじゃあな」
「うん、それじゃまたね。えっと・・・トオル」
「マモル!」
 背後で叫ぶ守の声を無視し、七海は茜色に輝く夕暮れの道をゆっくりと歩いていった。

『トオルorマモル』 完
  NEXT→

inserted by FC2 system