『Larmes du bonheur』

 6月22日。
涼子は水道の蛇口を捻り、桶に水を溜めてそこにタオルを浸した。十分に水を吸い込ませ、力いっぱい絞る。
「・・・ふぅ」
 そして階段を降り、戸を開ける。「タオル、持ってきました」
「ああ、ありがとう」
 医者は涼子に礼を言い、再び渡瀬に向き直った。「・・・全く、この青年は無謀だよ。あの中国マフィア『ブラッドコブラ』を相手にケンカを売るんだからな!」
「まぁそう言うな。坊主はただ純粋にそこの嬢ちゃんを助けようとしただけなんだ。それに坊主は生き残ったし、坊主の残した証拠のおかげで国際警察が立ち入り、ブラッドコブラもほぼ半壊だ」
 渡瀬はそう言って、未だ昏睡状態にある九条の顔を見た。
 あの日、クロードたちと受信機が示す場所に向かうと、そこには倒れこんでいるマフィアの連中と、脚と肩を撃たれて気を失っている九条がいた。その現場を見ればわかる。この目の前の青年は、プロであるブラッドコブラの連中とやり合ったんだ。そして、一般人である九条が7人のマフィアを無力化させた。これはとても信じられない結果だ。九条自身も重症を負っているとはいえ、どう戦略を練ったらそこまで事を運ぶことができるのだろうか。
 涼子はベッドに横になっている九条の顔をタオルで拭いた。
「・・・九条君はいつ目を覚ますの?」
 涼子のその質問に、医者である陳は首を傾げて唸った。
「・・・わからんな。両脚と左腕を撃たれている。命に別状はないから、目を覚まさないのは別の理由だろう。まぁ、一般人であるこの青年がこんな目に遭ったんだ。精神的にも疲れていたんだろう」
 陳のその言葉に、渡瀬も肯いた。きっとその通りなのだろう。この勇気ある青年は、自分を囮にし、犯人を自ら誘き寄せた。それも殺される危険性が孕んでいるのを承知の上で。こうして彼が生きて帰ってこれたのは運が良かったからだ。過程を考えると、いつ殺されていてもおかしくなかった。
彼は、恐怖を感じていただろう。
逃げ出したかっただろう。
しかし、そんな恐怖に耐えながら最後までやり遂げた。その精神的なストレスは予想もできない。
あの日、九条をこの闇医者の病院に運んで数日が経過したが、まだ目を覚ます兆候を見せない。
「ふぅ、渡瀬。ちょっと来い」
「ん、何だ」
 陳は渡瀬を促し、外へ出てタバコをふかした。「陳、どうかしたのか?」
 陳は小雨が降りしきる前方の景色を覗き込みながらため息をついた。
「渡瀬、お前は気がきかない奴だな」
 渡瀬はようやく気がついた。陳はあの部屋に、涼子と九条が二人きりになれるように配慮したのだ。自分はともかく、目の前の厳つい顔をした陳がそんなことに気がついたことに渡瀬は笑ってしまった。
「ははは、まさかお前にそんなこと言われるとはな」
「何とでも言え。ただオレはあの嬢が青年を見る・・・そのなんだ、熱い視線に耐えれなくなっただけだ」
「おう、仕方ないからそういうことにしておいてやるよ」
 渡瀬は陳からタバコをもらい、火をつけてふかした。「・・・このままハッピーエンドになって欲しいんだがな」

 私は、どう思ってるんだろう。
この人が生きて戻ってきてくれてすごく嬉しいのに・・・。
「・・・早く、目を覚ましてよ・・・」
 涼子は九条の顔を覗き込んだ。九条は相変わらず目を覚まさない。涼子は手を伸ばし、九条の顔に触れた。「早く起きないと、時間がなくなっちゃうよ・・・」
 事件は解決した。両親と弟を殺害した犯人は、警察に捕まり国の法で裁かれる。あの日、富士見谷は頭を下げて謝っていた。自分の弱さに、そしてその結果、私の大切な人たちを手にかけたことを。私は、あの人を許すことはできない。それでも、あの人のおかげで、目の前の人は助かることができた。それは複雑な思いだった。
 しかし、それから最近頻繁に起こっていた発作が弱まっていた。涼子は何となく感づいた。この発作が始まったのは、中学で美術部に入ってから。それはきっと、富士見谷の影響だろう。教科書に載っているその姿を見て、無意識に家族が殺されたあの日のことに対して精神的な苦痛を感じていたのだと思う。しかし、今は大分楽になった。
 それもこれも、この人のおかげ・・・。
私は、この先も生きていけるのだろうか。それが可能だとしたら、どれほど嬉しいことか。できることなら、これから先もこの人の傍にいたい。この人と一緒にいたいと思うのは、私の我がままだろうか。
「・・・九条君・・・」

 ・・・終わりました。
九条はその不思議な空間でそう報告していた。何も無い真っ白な空間。空もなく、地面もなく、視線の先まどこまでもその空間が続いている。
そして自分の前に彼らが立っている。
 涼子の両親。そして母、由香里の腕の中にいる正樹。彼らは九条に対し、微笑んでこちらを見ている。
・・・ありがとう。
 良司が頭を下げた。それを見て、由香里も頭を下げる。
「いえ、自分が勝手にやったことです。それに、周りの人に迷惑もかけてしまった。どうも、ボクはこうやって頭を使って行動することは向いていないようですね」
 九条は苦笑して彼らに歩み寄った。「顔を上げてください、お父さん、お母さん」
 九条に促され、彼らは顔を上げて互いに顔を見合わせた。そして二人して笑っている。
「・・・? どうかしましたか?」
・・・いや、君にお父さんと言われるのが嬉しくてね。つまり、そういうことかな?
 良司はニコニコと笑っている。最初は何のことだろうと首を傾げていた九条も、すぐにはっと気付いた。
「い、いや。そういう意味で言ったんじゃないですよ?」
 九条は真っ赤になって慌てて否定した。しかしその姿を見て、由香里が歩み寄って九条の手を握った。
あの子はああ見えて寂しがりなの。だから、お願いしますね。
「いや、その・・・」
・・・これで私たちも安心です。
 由香里はニッコリと笑って良司の元に戻った。この人の話を聞かない感じ。これは間違いなく涼子の血筋だ。九条は抵抗を諦めて苦笑した。
「はぁ、わかりました。あの人がどう思うかはわかりませんが、考えておきますよ」
 九条がそう言うと、彼らは安心したのか、ゆっくりと消えていった。恐らく、もう彼らがここにくることはないだろう。彼らの未練は、すでに断ち切られたのだから。
 九条はくるりと振り返った。その視線の奥には、暖かい光が差し込んでいる。
「・・・行くか」
 九条は微笑んで、その光の下へと歩を進めていった。

「・・・ん」
 涼子はばっと顔を上げた。九条の顔に動きが見られたのだ。
「九条君!」
 その涼子の呼びかけに応えるように、九条の目蓋がゆっくりと開けられた。それを見て、涼子は嬉しさのあまり彼に抱きついた。
「・・・ぐ・・・涼子さん。ちょっと・・・傷口が・・・」
 九条は目覚めたと同時に、高に撃たれた腕を圧迫するという痛々しいプレゼントを受け取った。それに気付き、涼子は慌てて身体を離した。
「あ・・・ごめんなさい」
「・・・ふぅ、痛みでまた意識がとぶところでしたよ・・・」
「その・・・本当にごめんなさい」
 九条は泣きそうになっている涼子を見て、慌てて前言を撤回した。
「あ、いや・・・もう大丈夫です。だから泣かないでくださいよ」
 九条は身体を起こし、涼子の頭に手を置いた。「子守は苦手なんですから」
「九条君!」
 涼子は口を尖らせて九条に顔を近づけた。「私は・・・子どもじゃないよ」
 九条は壁にもたれ、その九条に迫っている涼子。端から見たら彼女が襲っている図に見えてしまう。
「わ・・・わかりました、謝ります。だからもう少し離れてください」
 涼子の顔が自分の顔にものすごい接近している。下手をすると唇が触れてしまうような気さえして、九条は慌てて俯き涼子を止めた。しかし、涼子は引き下がらない。
「ね・・・九条君」
「な、何ですか?」
 九条は相変わらず俯いている。こんな接近している涼子の目など、まともに見ることが出来ない。
「腕、上げてみて」
「腕?」
 一体彼女は何がしたいのだろう。それでこの人が満足するのならと、九条は言われるままに両腕を上げた。
・・・だがその瞬間、涼子は九条に抱きついた。
「・・・これなら腕、痛くないよね?」
「あ・・・あの・・・」
 九条はどうしていいかわからない。自分の口元に、涼子の髪が触れる。九条は慌てて深呼吸をした。このままでは、激しくなった心臓の鼓動を涼子に感づかれてしまいそうだ。
「九条君・・・ありがとう」
 涼子は九条の胸の中でそっと囁いた。「九条君のおかげで、終わった。きっとお父さんも、お母さんも、正樹も喜んでる・・・」
 九条は、その涼子の言葉を聞き、彼女が涙を流していることに気がついた。
「・・・涼子さん・・・」
 涼子は必死になって嗚咽を堪えている。
「・・・でも、でも何であんなに無茶をしたの? あのテープを聴いたとき、私、九条君が死んじゃったかと思った。すごく哀しかった!」
「・・・涼子さん、でもこうやって死なずに終えることができたんだ。結果オーライですよ」
「バカ!」
 涼子は顔を上げて叫んだ。涙が頬を伝い、それが落ちて自分の頬に触れた。「・・・私はもう、九条君にあんな目に遭って欲しくないの。だって私は・・・」
「わ!」
 涼子は九条に再び抱きつき、耳元で小さく囁いた。
 外で降る雨音が少しずつ小さくなっていった。雲が晴れ、青空が顔を覗かせる。
 ・・・雨に濡れていた花が、小さく揺れていた。
私は、あなたが好きだから―

『Larmes du bonheur』 完
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