『プロローグ』

 今日も私はここにいる。
あの人に会いに、私は毎日ここに足を運ぶ。
そしてあの人の顔を見て苦しむんだ。
あの人の顔を見ると、あの人の声を聞くと、胸の鼓動が大きくなって顔がとても熱くなる。
岩戸七海(いわと ななみ)は胸を押さえて戸を開ける。冷房の涼しいひんやりとした空気が肌に触れる。今まで外の暑い日ざしの元にいた自分にとって、とても心地良い。そして、あの人が自分の方に顔を向ける。
「やぁ、今日も来てくれたんだね」
 彼は自分の姿を確認すると、ニコリと笑って駆け寄ってきた。「や、いらっしゃい」
「あの・・・今日も夏期講習あるからそのついでに・・・」
 七海は俯いてそう答えた。確かにこの後、昼から近くの塾で夏期講習があるが、本当の目的はそうではない。目の前の、この人に会いにきたのだ。
「そうか、七海ももう中学3年生だからね。受験、頑張ってね。応援してるよ」
「あ、ありがとう・・・お兄ちゃん」
 七海はそっと彼の顔を見上げた。この人の名前は伏見蒼太(ふしみ そうた)。自分の家の近所に住む5つ年上のお兄さん。私が小学校に上がった時、目新しい分団の中で一番優しくしてくれた。分団の中で行われる子供会では、よく一緒に遊んだものだ。彼が小学校を卒業し、分団に顔を出さなくなってもちょくちょく彼の家に遊びに出かけた。それでも彼は笑顔で招きいれてくれて、自分に学校の勉強の面倒も見てくれた。そして彼が高校に入学してから、このコンビニでアルバイトを始めたということを教えてもらい、それからほぼ毎日ここに通っている。
 蒼太はウォークからひんやりと冷えたジュースを手に、レジへ置いた。
「それじゃ、これはボクからの陣中見舞いだ。勉強、頑張ってきてね」
 蒼太は自分の財布からジュース代を取り出し、それでレジを清算した。「はい、どうぞ」
「・・・ありがとう」
 七海は彼からのプレゼントを受け取り、俯きながら小さくお礼を言った。
何でこんな対応をしてしまうのだろう。昔は違った。お兄さんと一緒にいるのが嬉しくて、いつもくっついていた。近所のお祭りがある時など、家の前まで迎えに行って手を繋いで行ったものだった。しかし今は満足に目を合わせることもできない。
「これが恋かぁ」
 七海は塾の席につき、崩れ落ちて言った。それを見て、友人の明日香が七海の肩を叩いた。
「ナナ、恋もいいけど、今はあんたの成績の方が切実だよ? このままじゃ第一志望受からないよ」
「ん〜・・・私は恋の方が大事だもん。明日香ちゃんはドライ過ぎるんだよ〜」
 この夏期講習だって、母が無理やり手続きをして放り込まれたようなものだ。こんなわけの分からない数字や英単語を見ているくらいなら、お兄ちゃんの顔を見ているほうが何倍もいい。そう項垂れた七海を見て、明日香は隣の席に座ってカバンから参考書を取り出した。
「いいのかな〜。ナナの初恋のお兄さんって、きっとナナみたいなおバカな子は嫌いだよ〜? 嫌われてもいいのかな」
「お兄ちゃんはそんなことで嫌わないもん。すごく優しいもん」
 七海は口を尖らせて拗ねた。それを見て明日香はため息をついた。そこまで想っているのなら、さっさと告白してほしい。まぁ、七海の話を聞いていると、『近所の女の子』程度にしか思われていないだろうが・・・。
「もう! ナナしゃきっとしなさい。そんなことじゃお兄さん、他の人に取られちゃうよ?」
「それはイヤ!」
 七海はさっと身体を起こし、首を横に振った。
「それじゃ、まずはこの第一志望の高校に受かりなさい。そうすればお兄さんも『ナナは頭の良い子だ』って良いイメージを与えれるよ」
「うん、私頑張る」
 七海はガッツポーズをとり、すぐさま参考書を開いてそれらと向き直った。全く、単純というか何と言うか・・・。恋をした人は強くなるというが、こういう部分は彼女の強みだろう。しかし普段は恋の後遺症ばかりが目に余る。
「うん、頑張りなさい」
 明日香は再びため息をついて、自分も参考書を開いた。

 講習が終わり、彼らは一斉に帰路に向かった。
明日香が隣を見ると、七海は集中力の限界を超え、廃人と化している。
「・・・ナナ?」
「・・・ふにゃぁ」
 相当重症だ。
「・・・うん、今日はあんた頑張ったよ。ほら、もう帰るよ」
「・・・にゃぁ・・・」
 言語が猫化してしまっている七海を無視し、明日香は教科書をカバンにしまい七海の手を取って彼女を引きずった。外はまだ明るい。18時といってもこの季節ではまだまだ昼のような明るさだ。明日香は空を見上げると、視界の端に知った顔が立っているのに気付いた。
「あ、伏見先輩だ」
「え!」
 その明日香の言葉に、七海はぱっと起き上がり、辺りを見渡した。彼女たちの視線の先で、蒼太がこちらに手を振っている。2人は蒼太に駆け寄り、明日香は笑顔を見せた。七海は明日香の後ろに隠れ、そっと彼を様子を窺っている。
「講習、終わったみたいだね」
「ええ。伏見先輩はどうされたんですか?」
「いや、実はね・・・七海のお父さんから連絡があってね。今日迎えに来ることができないみたいで、代わりに頼まれたんだよ」
「あ、そうなんですか」
「うん。林さんも家まで送ってあげるよ」
「あ、私はいいですよ」
 明日香は後ろに隠れている七海を蒼太の前に押し出した。「私はこの近所に住んでる親戚の家に行かないといけないんです。だから、この子だけお願いします」
 これは嘘だ。親戚の家に訪ねる用事はないが、ここは七海に気を利かせてあげる場面だと思い、明日香はさっと手を振って走っていった。
「あ・・・明日香ちゃん・・・」
 蒼太の前に一人取り残された七海は、走り去ってゆく明日香に手を伸ばして絶句した。
「さて、それじゃ帰ろうか」
 蒼太はそんな七海の気持ちに気付かず、自分の車に乗り込んだ。「・・・七海?」
「あ、はい・・・」
 七海は蒼太の車の助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。「あの・・・お願いします・・・」
 車が走り出した後も、彼女はずっと俯いていた。ただでさえ彼の顔を見るだけで心臓が踊りだしているのに、こんな密閉空間で2人きりなんて、緊張のあまり心臓が停止してしまいそうだ。七海は隣で運転する蒼太の顔をそっと見た。昔とは違う大人びた輪郭。大学2年生のはずだが、大学に入っても髪を染めることなく正に真面目な優等生といった感じだ。頭も良く、近所でも有数の某有名大学へ通っている。コンビニで働いてはいるが、既に国家資格も取得している。合格率が6〜7%と云われているテクニカルエンジニアという資格がとれたらしいと母に聞いた覚えがある。それがどんな資格で、どれくらい難しいのかわからないが、相当高度な資格のようだ。これがあればすぐに就職もできる。つまり彼は、頭も良く、性格も良く、仕事もできる。正にパーフェクトマンだ。
「・・・女の人に・・・人気なんだろうなぁ・・・」
「え?」
「あ、その・・・何でも無いです・・」
 七海は慌てて口を押さえた。どうやら無意識に呟いてしまっていたようだ。そんな七海の姿を見て、蒼太は「アハハ」と笑った。
「それにしても、七海って変わったね。昔はもう少しおてんばだったような気がするけど・・・」
「わ・・・私は昔からその・・・おしとやかです」
「そうだったかなぁ・・・? でも今は確かに大人しくなったよね。学校で誰か気に入った人でもできたのかな?」
「そ、そんなのいません」
「恥ずかしがることないよ。中学生ならそういう人がいてもおかしくないさ」
「・・・お兄ちゃんも・・・そういう人いたの・・・?」
 質問していた立場のはずの蒼太は、逆に聞かれて苦笑した。
「あはは・・・そうだね。そういう人も・・・いたよ」
 蒼太は目を細めて哀しそうな表情を浮かべた。しかし、すぐに笑顔を浮かべた。「さ、七海の家に着いたよ」
 外の景色を見ると、いつの間にか自分の家の前に到着していた。七海はシートベルトを外し、カバンを持ってドアを開けた。
「あの・・・お兄ちゃん、ありがとう」
「ああ、それじゃあね」
 蒼太は手を軽く振り、アクセルを踏んでその通りを走っていった。
 七海はその車の後ろ姿を見送りながら、先ほどの蒼太の哀しそうな表情を思い出した。
「お兄ちゃん・・・何かあったのかな・・・」
 あの人のあんな哀しそうな顔は初めて見た。過去に何があったんだろう・・・。
 七海は大きく鼓動する胸を押さえ、その道を見据えた。

『プロローグ』 完
  NEXT→

inserted by FC2 system