『涼子』

 入学式。
定番ともいうべき学長の長い話を上の空で聞きながら、春の暖かい陽気を感じていた。この素晴らしい入学式の日を祝うかのように通り行く桜の花も満開を迎えている。やはりこの季節は心地よい。花粉症もちの人間には気の毒だが、しばらくはこの陽気を楽しませてもらおう。
 それにしてもこういった緊張するような式はやはり苦手である。背筋を伸ばすよう意識するが、途中で疲れて崩れてしまう。何事も始めが肝心というように、真摯な姿勢で臨むつもりであったが慣れないことはするものではない。無理をせず、自然体が一番である。
 ただでさえ・・・例の件で疲れているのだ。

 泉は高らかに笑った。
「まぁ、そんな訳だ。今岡君も助かるだろう」
 九条は呆気にとられた。自分がここでバイトをする? そんなこと一言も聞いていない。いや、確かに今耳にしているが、初耳だ。この制服を着ているのだって、先ほど着ていた服をクリーニングに出しているから、代わりにこの服を着て欲しいと言われているだけなのだ。この店に来たのだって「喉が渇いたろう? あそこのコンビニで買ってあげよう」と泉が言うからついてた。なぜそんな状況になるのかと、九条が頭の中でグルグルと考えていた時だった。
「本当かい?」
 今岡が九条の両手を拝むかのように握っていた。「ああ、ありがとう。すごく助かるよ!」
「よかったですね、店長。これでやっと奥さんの怒りも収まりますね。店長ずっとシフトに入ってるから奥さんカンカンでしたもんね〜。離婚目前ってとこでしたからね」
 傍にいた涼子も嬉しそうに微笑んでいる。
「ああ、本当に助かるよ。これでボクの人生も何とかなる。ありがとう!」
 今岡は涙を流して深々と頭を下げた。
「・・・」
 状況が把握できずに唖然としていた九条だったが、すでに選択肢は無いものだと感じていた。ここで断ったら、今岡は離婚騒動に発展し、その責任はこちらにまわってくるのだろう。全くもって自分は無関係であるのだが、現在の状況は自分に有無を言わせてもらえるような状況ではなかった。
「あ、はい・・・」
 もう何も言い返す気力もなかった。そして地獄のバイト生活が始まった。大学の入学式まで何も用事がないため、ほぼ丸一日シフトに入れられる日々。一週間で研修を終了させられ、翌日から18時間労働。朝6時から始まり、14時に退勤。そしてアパートで休憩し19時から朝方の4時までシフトに入る。1日の睡眠時間は驚くほど少ない。3時間寝られれば良い方だ。明らかに規定労働時間を超過している。こんな毎日では身体がもたず、少しでも減らしてもらえないかと考えた。しかしシフト表から逆算した給料を考えると夢を見てしまう。このままいけば4月にもらえる給料は30万はかたいだろう。その前に倒れないことを祈ろう・・・。

 そしてようやく今日から大学生活が始まる。バイトもほぼ毎日入っているから大変だが、こうしてゆったりできる時間があることはありがたい。
 入学式が終わり、それぞれが自由な時間を過ごしていた。ある者はサークルの勧誘に捕まり、ある者は新しい友人をつくっていた。しかし九条は体力の回復を優先し、静かな木陰で横になった。
 暖かな風が通り抜ける。 たくさんの人たちの楽しそうな声が聞こえる。知っている人の声も聞こえる。
・・・知っている人の声?
「あれ、九条君? こんなところで何してるの?」
 いや、気のせいだろう。3日徹夜すると幻聴や幻視の症状が現れるというアレだろう。ああ、やっぱり疲れているんだ。早く寝よう。
「おーい、起きなさーい! キャア!」
 鈍い音とともに頭部に痛みが走った。
「な、なんだ?」
 痛みの中ゆっくりと眼を開けると、目の前に幻が立っていた。
「痛た・・・この石頭」
 幻は頭をさすっている。どうやら例のごとくつまづいてしまい、自分の頭とぶつけてしまったらしい。全くよくできた幻だ。
「こんなはっきりと幻を見てしまうなんて・・・やっぱり疲れてるんだな。わかった、すぐに寝るよ」
「誰が幻ですか! いいから起きてください。あ、ちょうど良かった。今から私のサークルに見学に来ない? うん、それがいいよ。そうしよう」
 どうやらこの幻は人の話を聞かないところまで忠実に再現されているらしい。九条ははっきりとしない意識の中、この幻こと涼子に先導されて歩き出した。

 それにしても、全く失礼な男だ。こんな広いキャンパスで偶然出逢えたというのに、幻呼ばわりはないだろう。そりゃ確かに彼はバイトで疲れてるのはわかるけど・・・。
 涼子は隣で歩いている九条を見た。九条は身長175前後で、涼子とは20センチ以上も違う。体格も太すぎず痩せすぎずといったところだが、しっかりとしているので何かスポーツをやっているのかもしれない。それにしても、本当にきつそうだ。負担を減らすため、涼子が少しでもシフトを代わろうとするのだが、いつも断られる。
「あなたは多くても8時間労働に抑えてください。そして遅くても20時には退勤するようお願いします」
 九条は涼子が手伝おうとするといつもそう言う。「お子様は早く帰ってください」
 彼は涼子のことを心配して言ってくれているのだろうが、年下に「お子様」と言われるのは納得できない。
「あ、着いたよ。私ここのサークルに入ってるんだ」
 涼子は九条の前に立って自慢げに紹介した。そこは彫刻や絵画といった美術品が立ち並ぶ部屋であった。
「へー、美術サークルですか?」
「うん、私は主に絵画専門だけどね。ほら、これが私が描いた絵だよ。去年のコンクールで入賞したんだよ〜」
 九条はその絵の前に立って眺めた。
「すごい」
 九条は素直に驚いている。素人目にもこの絵がとても素晴らしい作品であることは見てとれる。目に映える色使い。優しいタッチ。どれも見るものを魅了するような力を秘めているような気がした。彼女は素晴らしい画家の才能を秘めている。しかし、その優秀さが日常生活に反映されないのはどうしてなのだろうか?
「へへ〜、驚いたか。ね、九条君。もし良かったらこのサークルどうかな? 私が色々教えてあげるよ。お姉さんとして」
「お姉さん? どこにお姉さんがいるんでしょうかね〜?」
 九条はわざとらしく周りを見渡した。「目の前に小さな女の子なら見えるけど」
「もう! 私のほうが年上なんですよ。大人なんですよ。目上の人は敬いなさい!」
「ああ、はいはい」
「よろしい」
 その光景は機嫌の悪い妹に付き合う兄という姿に見える。しかしその答えに気をよくしたのか、涼子に笑顔が戻った。
その後九条は涼子に押し切られ、美術サークルに仮入部するという形となる。

 九条は僅かな期間でコンビニ店員としての学習を終えていた。この店で働く以前はコンビニに対して「楽」というイメージをもっていた。しかしお客として見ていた店員の姿は表面上だけで、その仕事量は驚くものがある。常にレジと客に気を配り、掃除、揚げ物、補充、発注をしつつ動かなければならない。24時間営業であるために、休まる時が無いのだ。もちろん、どんな仕事先でもつらいのであろうが。
「ああ、ありがとう。九条君、頑張ってるね」
「ありがとうございます」
 九条の顔も僅か半月で近所の住人に覚えてもらえていた。ほぼ1日店にいれば当然といえば当然だが・・・。
「九条君ももうベテランだね」
 涼子は店の温度チェックをしながら笑った。
「コンビニのベテランってイメージよくないなぁ・・・。涼子さんはいつからここで働いてるの?」
「私は中学卒業してすぐにここで働いてるよ。ここに通ってるのは幼稚園の頃からだけどね」
 つまりは4年前からこんなハードな職場にいるということになる。涼子を見ていると年齢がわからなくなるから怖い。
「あ、お兄ちゃん今日もいる!」
 店内に4,5歳ほどの女の子が入ってきた。「こんばんわー!」
「うん、今晩は」
 この女の子は近くにある幼稚園に通っているらしい。元気で、無邪気で、こういった笑顔を見ると疲れも吹き飛ぶような気がした。
「あ、いらっしゃい!」
 涼子が子供に歩み寄ろうとしたその時−
「キャア!」
 涼子は何もないところでつまづき、目の前にいた九条を突き飛ばす形となった。不意をつかれた九条は床にとどまる事もできず、正面の扉に顔面をぶつけた。
「う!」
 九条はあまりの痛さに芋虫のように身体をくねらせた。「いったー!」
 涼子の動きには気をつけているつもりなのだが、気を抜いた一瞬を狙ったかのように被害に遭う。睡魔と痛みがブレンドし、意識を保つのも難しくなってきた。このまま闇の中に落ちていけばどれほど楽になれるだろうか。しかしそんな心地よい暗闇も、涼子の声で虚しくも消え去った。
「あぁ、九条君。ごめんなさい・・・! 今すぐハンカチ濡らしてくるね」
「待て・・・。今お前が持っているのは雑巾だ」
「あ、間違えた。うん、これは間違いなくハンカチだよ。それじゃ、行ってくるね」
 涼子は雑巾を置き、ポケットからハンカチを取り出して走っていった。あのまま止めなければ顔面に雑巾をかけられるところだった。しかし、涼子の運動音痴っぷりはすさまじい。今まで今岡店長はこんな目にあっても耐えてきたのだろうか。4年間も耐えていたのだとすると、尊敬に値する。九条は僅か半月で挫けそうになっているというのに・・・。
「お兄ちゃん、大丈夫? イタイイタイの飛んでけー!」
 女の子が九条の顔をさすり、痛みを飛ばす動作をとった。「痛いの無くなった?」
「ああ、治ったよ。ありがとう」
 本当はまだジンジンと痛むが、この子供の優しい気持ちを無駄にしたくはない。九条は笑顔で返した。
 少しして涼子が戻ってきたが、手に持っていたのはなぜか雑巾になっていた。
「向こうで転んで破れちゃって・・・これしかなかったの。雑巾でいい?」
「いいわけあるか」
 常に予想の斜め上をいくやつである。

 深夜4時。
ようやく仕事が終わり、九条は退勤処理を行った。
「それじゃ、お先に失礼します」
 クルーに一声かけ、店を出た。すぐにアパートに戻り、2時間だけ睡眠をとり、朝食を作らなければいけない。そしてすぐに学校だ。明るくなりかけた空は九条の視界を容赦なく潰した。正に吸血鬼になった気分である。
「さて、帰るか」
 欠伸をしながら商店街を出ると、少し離れた場所に知った顔が立っていた。
「今度こそ幻か?」
 九条は目をこするが目の前の人物は消えることはなかった。その人物は九条に気付くと、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「こんな時間に何してるんですか、涼子さん? 子供が出歩くにはまだ早すぎると思いますよ」
 九条は苦笑しながら言った。
 目の前の涼子は顔を俯かせたまま、九条の顔を見ようともしない。普段ならば子ども扱いするなと怒ってくる場面なのだが・・・。
 涼子はゆっくりと顔をあげた。
「・・・うるさいよ。私を子ども扱いするんじゃない」
「え?」
「九条・・・瞬だっけ? 私にあんまり構わないでくれよ。邪魔だから」
 涼子はそう吐き捨てると、その場を去っていった。
 一方、残された九条は混乱していた。昨日までの涼子はドジなところもあるが、一般的に無邪気で可愛いと思わせるような女の子だった。年上に女の子は失礼かもしれないが、正にそういう印象だった。だが今の涼子は冷たく、背筋が凍るようなものを感じさせた。僅か8時間の間に彼女に一体何があったのだろうか。
「あー! もう何なんだよ!」
 睡眠不足で弱った頭では状況すら理解できない。早くアパートに戻り、少しでも仮眠をとることにしよう・・・。
状況が良い方向に変わっていることを願って・・・。

『涼子』 完   

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