『九条の無謀』

 6月16日。
涼子は油絵の道具を片付けると、キャンバスに描かれた目の前の自分の作品を見据えた。
やはり、いい絵ができてきている。こんなに想いを込めて筆を走らせるのは初めてかもしれない。
「・・・これが私の・・・最後の絵・・・」
 母のあかりも、掛かりつけの医師の橘も、口を閉ざしているが自分にはわかる。自分はもう長くない。何が原因かはわからないけど、最近は胸の動悸が頻繁に発症する。意識が混濁し、身体中の力が抜けて立つこともできなくなる。それはとてもイヤな感じだ。そして胸の奥から何かイヤな感覚が込み上げ、吐き気さえする。この感覚は、とても恐い・・・。
 涼子は自分の掌を天井に掲げた。
「・・・昔も・・・こんなことがあったような気がする・・・」
 デジャヴではない。確かに過去に同じような体験をしている。でも思い出せない・・・。思い出そうと記憶を探ると、なぜか嫌悪感を抱く。涼子は胸を押さえ、激しい動悸に襲われながらその場に座り込んでしまった。他の部員はすでに帰宅しており、この部屋には誰も残っていない。顧問の先生も、今日は出張で校内に残っていない。助けを呼ぼうにも、誰もいない。
「・・・はぁ・・・はぁ・・・」
 涼子はついに倒れこみ、意識が朦朧としてきた。しかしそれでも必死になって手を伸ばす。「・・・助けて・・・」
まだ死にたくない。まだあの人に何も言っていない。まだ・・・あの人に何も残せていない・・・。
涼子はぼやける視界の中で、自分の描いた絵を見上げた。
「まだ・・・描き終えてない・・・」
 あの人にあげると約束した絵。せめて、この絵だけでも完成させたい。涼子はキャンバスに手を伸ばし、そこで意識を失ってしまった。

 周りは何もない真っ暗な空間。
足が地に付いているのかもわからない闇。
「・・・ここは・・・?」
 涼子は朦朧とする意識の中、ゆっくりと歩き出した。目の前は何も見えない。一切の光さえない暗黒の空間。「・・・私・・・死んじゃったのかな」
 不意に身体の力が抜け、涼子は倒れこんだ。そして全く動くことができなくなっていることに気付く。そして次第に身体中に痛みが走った。
「・・・うぅ・・・痛い」
 その激痛は全身を廻り、動悸も更に激しいものになっていた。「痛い痛い・・・!」
 ・・・その時、自分の手に誰かの体温が触れた。
 そこで涼子は思った。この状況、過去にも体験したことがある。あの時は確か・・・顔を上げると・・・。
「・・・涼子・・・」
「・・・お、お父さん・・・?」
 目の前にいるのは、間違いなく自分の父親。山本良司だった。そして涼子は全てを思い出した。「お父さん!」
 身体中の痛みも苦しみも忘れ、涼子は良司に抱きついた。
「お父さん・・・お父さん・・・」
 涼子は良司の胸の中で何度も父親を呼び、涙を流している。
「涼子・・・ボクはもう・・・ここに残ることはできない・・・」
「そんなのはイヤ! ・・・一緒にいて・・・」
 涼子は泣きながら良司の顔を見た。良司は、何度も見た困り顔をして微笑んだ。
「涼子には・・・もう一緒にいてくれる人がいるだろう。・・・ほら・・・」
 良司が涼子の背後に指を伸ばし、涼子もその指の先を見ると、そこには誰かが立っている。涼子は何度も目を凝らすが、そこに立っているのは間違いなく自分であった。
「・・・私・・・?」
 自分の姿をした人物が微笑みながらゆっくりと歩み寄ってきた。
「・・・初めまして・・・だね。私はもう一人のあなた。水無月葵。そして私の後ろにいるのは杏と百花。私たちとあなたは元は一人の涼子という人間だった。私はあなた。あなたは私。だから・・・わかる。あなたはまだ希望を捨ててはいない。そうでしょう?」
 葵は涼子の前に手を差し出した。「このままお父さんと一緒に行ってしまうと・・・もう彼とも会えなくなる。涼子、あなたはそれでもいいの?」
「・・・私は・・・」
 俯く涼子に対し、良司は軽く彼女の背を押した。「お、お父さん・・・?」
「行きなさい。涼子には彼が、そして彼には今の君たちが必要なんだ。さぁ、涼子。前を向いて・・・歩くんだ」
 良司に再び背を押され、涼子はゆっくりと葵たちの元へ歩き出した。
「・・・お父さん・・・ありがとう・・・」
 最後に涼子が振り向くと、良司は微笑んで消えていった。そしてその瞬間、今まで周りを覆っていた暗闇が一斉に晴れた。
「涼子、一緒に行こう」
「・・・うん」
 涼子は葵の手を取り、目を閉じた。「行こう・・・。九条君を助けに!」

 今日も学校で九条の姿を見ていない。葵たちの話によると、単独で犯人を探っているらしい。
「何で・・・九条君がそんな危ないことを・・・」
 涼子は走りながら疑問をぶつけた。しかし、涼子にはもうわかっている。少しずつだが、葵たちが見てきたこと、聞いてきたことが自分の頭の中に入り込んでくる。
「瞬は・・・優しいから。優しいから、私たちを助けるために危険も顧みずに挑んでいる」
 葵は涼子にそう答えた。
 ようやく、目的地である市立図書館へと到着した。百花の話によると、九条を手紙でこの場に呼び出している。
会ったら、私も一緒に動くんだ。あの人だけを、危ない目に合わせたくない。
 涼子は図書館内に入り、九条の姿を探した。ここの図書館は大きく、1階から3階までのスペースがある。体力面では自信のない涼子だったが、全速力で駆け、探し回った。
 しかし、どこにも九条の姿はなかった。
「・・・おかしい・・・。確かに私は手紙で呼び出している。葵、九条に電話を」
 百花は冷静に対処し、葵は言われた瞬間に携帯を手にして九条の番号にかけていた。
「瞬・・・早く出てよ・・・」
 何度もコールが鳴り響くが、結局、九条が電話に出ることはなかった。
「・・・九条君・・・」
「君・・・水無月さんかい?」
 不意に声をかけられ、涼子は驚いて振り返った。そこにはこの図書館の職員が一枚の紙を手にして立っている。
「あ、はい・・・」
「ああ、よかった。君が誰かを探している様子だったからもしやと思って・・・。実は君にこれを渡して欲しいって昨日から頼まれててね」
 職員の男性は涼子に手紙を差し出した。「いや、本当困ってたよ。写真とかもないし、特徴しか教えてくれなかったからね」
「それって・・・中学生くらいの女の子・・・って言ってませんでしたか?」
「あ、ああそうそう。よくわかったね」
 全く、九条は相変わらずだ。涼子は手紙を受け取ると、礼を言って近くの椅子に座った。
涼子は手紙を開けると、間違いなく、九条からの手紙だった。
『百花さんから手紙を受け取ったけど、今は会うことができない。今自分は犯人と思われる人物と接触し、狙われている。自分の傍にいると、涼子さんたちも巻き込んでしまうことになってしまう。だから、事件が解決するまで会えない。
 もし・・・オレの身に何か起きたら、ある物を警察に届けてほしい。もし自分に何か起きていたら、あの事件に関する犯人たちの声明が記録されているはずだ。その証拠は富士見谷のアトリエの周辺にある喫茶店を探して欲しい』
 手紙には、そう書かれてあった。
「九条君・・・」
 涼子はその手紙を胸に押し付けた。このままでは九条が危ない。この手紙を職員に預けたのが1日前だとすると、連絡がとれないということは最悪の事態を予想させる。早くしないと・・・。
 涼子は急いでその喫茶店へと向かった。

 喫茶店に入ると、店員が「いらっしゃいませ」と明るい表情でやってきた。
「こちらへどうぞ」
「あ、あの・・・この店に忘れ物とか・・・ないですか?」
「失礼ですが、お客様のお名前は?」
「あ、私じゃないですけど、友達が・・・。九条っていう名前なんですけど・・・」
 涼子がその名前を言うと、店員はすぐに何か思い当たったようで、中へと引っ込んで行った。そして数分ほどして、九条のカバンを持って再び涼子の前にやってきた。
「こちらでよろしかったですか?」
「あ、はい。ありがとうございます!」
 涼子は礼を言って、すぐに店を飛び出した。忘れ物を預かってもらっていたのなら、何かを注文して帰るのがマナーだとも思ったが、今はそんなことも考えている余裕はない。涼子は近くの公園のベンチに腰を下ろし、九条のカバンを開けた。中には普通の大学ノートと筆記用具。そしてMDプレイヤーとテープレコーダー。涼子はすぐにテープレコーダーを取り出し、イヤホンを耳に当ててスイッチを押した。
 すると、そこから九条の音声が流れてきた。
「お忙しい中、わざわざお時間を作っていただき、ありがとうございます」
「いや、いい。丁度休憩するところだった」
 相手の声は聞いたことがある。テレビで何度か取材されていた富士見谷だ。そしてしばらく九条と富士見谷が会話を続けている。それにしても、九条の敬語は聞きなれていないので妙に違和感を感じてしまう。こんな切羽詰った状況でなければ笑いを溢してしまっただろう。
「・・・山本・・・良司さん・・・」
「な!」
 急に富士見谷の様子が変わった。父親の名前を出しただけで、なぜそこまで反応するのか。やはり両親や正樹を手にかけたのは・・・。
 耳を澄ませると、九条が部屋を出て行ったようだ。しばらくして、再び富士見谷の声が聞こえてきた。
「あの青年は・・・良司のことを知っていた。あの青年は・・・何かを知っているかもしれない。もしかすると我々がしたことも・・・」
「ま、待て! 私がもう一度話しをする。何か知っているようなら口止めもする。だからこれ以上・・・」
 そこまで聞き、涼子もはっきりとわかった。間違いない。富士見谷はあの事件に関係している。そして電話の主も・・・。
 そこで一つ目のテープが終わった。涼子はすぐに2つ目のテープを流した。
「・・・君は何を知っている」
 再び富士見谷の音声が流れた。
「・・・さぁ。ただ、あなた方がよからぬ事をしているのはわかっています」
 九条の強気の言葉が聞こえる。殺人犯を目の前にし、そうやって強気の態度をとってほしくない。いつ、九条も同じ道を辿ってもおかしくない状況なのだ。そして、どうやら九条と対峙しているのは富士見谷だけではないらしい。
「・・・よからぬ事とはなんだ?」
 全く聞き覚えのない声だ。
「・・・山本家惨殺。あなた方でしょう?」
「バカを言うな。私もあの事件では警察に取り調べを受けている。しかし私にアリバイがあることはちゃんと証明されている!」
 富士見谷が吼える。
「そうですね。警察の資料によると、あなたはその時間ブローカーと飲んでいたらしいですね」
「そうだ。あの日は私の絵の商談について話していた。だからアリバイのある私に犯行は不可能だ」
「・・・何年も前のことなのに、よくそんなに覚えていますね」
「あ、当たり前だ。友人が殺されたんだぞ」
「まぁ、いいです。当時警察では凶器から犯人を見つけ出そうとしましたが、結果は現在知っての通りです。そこでオレはある店を訪ねました。どうやら一般人には知られていない『裏の店』というのが日本にはあるようですね。犯行に使われた凶器はそこで手に入れたものでしょう。知人がそこの店を調べてくれていると思いますが、証言を得ることができると確信しています。そこから犯人に繋がるでしょう」
「アリバイはどうやって崩すつもりなんだ・・・?」
「ああ、それは犯人が複数いれば簡単です。あなたは確か・・・高(ガオ)さん・・・と言いましたよね?」
「ああ」
「警察の資料によると、中国人ブローカーであるあなたは富士見谷さんと深夜ずっと一緒にいたと証言してますが、もしあなたが共犯者なら? どちらかがアトリエに残り、もう一人が犯行。そして目撃者を出さずにアトリエに戻って、後にやってくる警察の取調べを受ける。凶器はあなた方以外の共犯者が隠滅した、と考えれば簡単にアリバイも成立してしまいますよね」
「所詮は空想に過ぎない。何の証拠にもならないな」
 高は脅すような低い声で言った。「私たちが犯人というならまず証拠を出してもらうか」
「残念ならが証拠はありません。第一、ここまでやっておいて証拠を残すような犯人とは思えない」
「はっ! 散々犯人呼ばわりしておいて、最後にはそれか」
「ですが、動機はわかりますよ」
 九条のその一言でしばらく無言の時間が流れた。聞いている涼子にも緊張の汗が流れる。
「言ってみな」
「警察はこの事件を物取りと考えていたのでしょうが、事実は違う。オレは現場に行って色々探してきました。まず怪しいのはこのカメラです。フィルムが入っていない。奥さんである由香里の親戚から聞いたのですが、良司さんは細かい性格だったようで、そういう彼なら撮り終わった後も、しっかりとフィルムを入れていそうなものです。フィルムがなかった理由はあなた方が盗ったからでしょう。何か知られたくないものでも撮られたのかもしれませんね。それも、中国人であるあなたも協力するような大きな問題をね」
「・・・それも結局はただの空想に過ぎない」
「まぁ、最後まで聞いてください。オレは一度富士見谷さんのアトリエにお邪魔しました。伺って気付いたのですが、監視カメラの数が異様に多い。あれは単純に盗難防止のためじゃない。知られたくないものが、奥にあるんじゃないかと考えました。一番可能性が高いのは・・・麻薬かな? 富士見谷さんの作品を利用して、麻薬を売りさばく。ありそうな話じゃないですか」
「確かに・・・。しかし実際はそんなものない」
「それは実際に見れば済むことです。今から警察に話をし、一緒に見に行ってもらいます。あなた方は一切ここから動かないでもらいたい。まぁ、本当になければどう訴えてもらっても結構です」
 九条がそう言った瞬間、銃声がなった。
「ミスター隆盛。そいつから携帯を奪え」
「高! 何を」
「なかなか勘の鋭いガキだ。恐らくお前の説得にも応じないだろう。ならば手段は一つじゃないのか?」
 そして再び銃声が聞こえ、そこでテープは切れた。
 涼子は震えた。確かにこのテープを警察にもっていけば、有力な証拠になる。でもその代わり、九条を失ってしまったのかもしれない・・・。私は・・・彼の力になることができなかった・・・。肩を震わせ、涼子はわっと泣き出した。今の現状に、葵も杏も、百花も何もできず涼子と共に絶望に瀕している。
 しかし、泣いてばかりもいられない。彼が残したものを、警察に届ける。それが自分が九条のためにできる唯一の手段・・・。涼子は涙で頬を濡らしながら立ち上がった。ゆっくりと歩き出すと、目の前に誰かが立っているのに気がついた。2メートルを超すような大きな外国人。手には一枚の写真を持っている。
「君が・・・涼子だね?」
 涼子はびくっと怯えた。九条を手にかけた犯人の一味かもしれない。この証拠品を隠滅しにきたのだろうか。しかし、そんなことはさせない。これは九条が命がけで残してくれた証拠品なのだ。涼子はさっと逃げ出そうとしたが、すぐに大男に捕まってしまった。
「いや! 離して!」
「ま・・・待ってくれ。怪しい男に見えるが違う。私は九条の知人だ。今九条を探してるんだ!」
 腕の中で暴れる涼子に、男は慌てて用件を述べた。
「え・・・九条君の?」
 男はすっと涼子を離し、ため息をついた。
「ああ。私の名前はミッシェル・W・クロード。九条から事件の内容は聞いている。それで九条が追っている相手がわかったんだが、それが非常にまずい。君は九条の居場所を知っているか?」
 涼子は俯いて九条が残したテープレコーダーをクロードに渡した。
「・・・九条君が・・・」
 涼子は再び泣き出してしまった。クロードはそれを見て、最悪の事態を想定した。テープの内容を聞き、クロードは地面を殴りつけた。
「・・・瞬・・・」
 少しして、渡瀬がやってくる。
「ミッシェル! 坊主は?」
「渡瀬・・・」
 クロードは立ち上がって渡瀬と向き直った。「どうやら一人で突っ込んでしまったようだ・・・。このテープに、瞬が対峙していた男が銃声をぶっ放している音が聞こえた。恐らく・・・」
 なぜ、あんな正義を信念としている青年が、こんな目に遭わなければならないのだ。なぜ、世の中には彼の信念を踏み潰してしまう腐った輩が存在するのだ。クロードは怒りを露にした。
「・・・待て、まだ・・・可能性はあるかもしれない。ブラッドコブラの連中はマーケットで人身売買も行っている。その場で殺すより、そういう場に連れて行った方が奴らも利益を得る。もしかしたらまだ生きている可能性があるぞ、ミッシェル!」
「渡瀬! 奴らの巣は分かるか?」
「ああ。ミッシェルから連絡を受けてしっかり調べておいた」
 クロードと渡瀬は互いに肯いて走り出した。
「待って!」
 2人の後を追い、涼子はクロードの手をとった。「私も連れて行って!」
「・・・涼子、今から行く場所は危険だ。君はこのまま警察に証拠品を持っていってくれ」
「イヤ! これは九条君が命がけで残してくれたもの。だから、これは九条君と一緒に持っていく!」
 その涼子の啖呵を聞き、渡瀬は笑い出した。
「ハハハ、なかなか骨のあるお嬢ちゃんだ。クロード、嬢ちゃんはワシが守ってやる。連れて行くしかないぜ」
「渡瀬、お前も九条の無茶振りがうつったようだな。涼子、どうなっても知らんぞ」
「はい!」
 クロードは涼子を担ぎ、再び走り出した。「待ってて、九条君!」
「若いってのは眩しいもんだな」
 渡瀬は苦笑して呟いた。

『九条の無謀』 完

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