『自分にできること』

 ・・・聞こえるだろうか。
あなたには私の声が聞こえるだろうか。
・・・見えるだろうか。
あなたには私の姿が見えるだろうか。
私はそこには存在しない虚空な存在。私はそれを知っている。あの赤い惨劇の後に私は生まれた。それは哀しい過去の産物・・・。
 涼子は彼に惹かれ、葵は彼を信頼する。ならば私は・・・。

 5月7日。
ゴールデンウィークが終了し、皆が「五月病」という憂鬱さを残す季節。九条はこの道を歩いていた。
ゴールデンウィークという黄金の週間は彼にとっては恐怖の象徴でもあった。過去に働いていた和食店では、まさに地獄。半日で250人以上の客が来店し、店の入り口には長者の列。待ち時間は約50分以上もあるというのに待ち続ける客。そんな大勢の客の注文を捌き、休憩時間になる頃には精魂も尽き、用意していた在庫も心もとなくなる。そしてその休憩時間内に再び仕込みをして、昼間と同じ客数を相手にする。それが数日続くのだから身体の倦怠感が抜けやしない。
 しかしコンビニでは毎年の地獄を味わうことなく過ごすことができた。やはり家族で出かけることが多いのか、コンビニにやってくる客など普段の半分にも満たない。そのおかげで疲れを残すことなく、考えることができた。それはもちろん、涼子のことだ。
 九条は目の前の市の図書館へ到着した。そして昔の記事を探った。約15年前の記事を・・・。係の人に探してもらい、とりあえず愛知県全体の記事を受け取った。その大量の資料を手に、机に腰をおろして眺め始めた。九条は県外からやってきていたので、愛知県に関して詳しい知識はなかったが、愛知県と言うのは尾張地方・西三河地方・東三河地方より構成され、自動車産業が集積している土地のようだ。記事を見ているとそれを紹介するような文脈をいくつか見つけることができた。他にも、愛知県は様々な有名人も輩出していることに気が付く。海部・加藤元内閣総理大臣や、九条はあまり知らないが、元衆議院議長の名前もある。音楽界においてはスズキ・メソードの創始者、鈴木鎮一。そして国際コンクールの優勝者たちの名前が連なる。漫画「ドラゴンボール」で有名な作者もこの県から輩出されている。
「あ、あった」
 そしてついに目的の記事を発見した。
『12月4日。一家惨殺事件。山本良司さん(30歳)、山本由香里さん(27歳)、山本正樹くん(2歳)が殺害され、一命を取り留めた山本涼子さん(5歳)も、重症を負った。推定犯行時刻は深夜22時〜4時。凶器は遺体に無数の切り傷が残っていることから、刃渡り10センチを超える刃物だと思われる。』
 そこでその事件の説明は終わっていた。九条は急いでこの事件の追記を探した。3日後の記事にそれがあった。
『一家惨殺事件でただ一人一命を取り留めた山本涼子(5歳)さんの意識は未だ回復していない。犯人は未だ見つかっておらず、親族の方たちは悲しみと怒りを表し、報道者にその旨を伝えてくれた。』
 葵の話では約1年間眠ったままだと言っていた。恐らく、その後もずっと眠っていたのだろう。むしろそれを本人が望んだのかもしれない。大好きだった家族がいない世界。それよりも、夢で彼らに会うことができるのなら、そちらの方がずっと良い・・・。
『あの家族の悲劇から一ヶ月が経った。警察は凶器の刃物から犯人を割り出そうとしているようだが、捜査は難航しているように思われる。現在、事件現場では友人、知人、そして通行人が花束を置き、被害者への悲しみに涙を流している姿が見られる』
 その後の追記を探しても、九条はついに「犯人」が捕まったという単語を見つけることができなかった。
・・・まさか未だに捕まっていない?
 九条はあの夜、葵との会話を思い出した。

「人格が消えてしまう」
 九条がそう言った瞬間、葵は驚いて目の前の男を見た。
「なぜ・・・そう思った?」
「・・・葵さんの話を聞いて、今までのことを思いだしていました。涼子さんと初めて会ったときの事から・・・。これはまだただの勘でしかないけど」
 九条は月を見上げた。月はこんなに明るく照らしてくれているのに、今の自分は真っ暗な部屋にいるように、希望の光さえ見つけることができていない。
「涼子さんたちの身に、何かが起きている。葵さんはそれに気付き、自分たちが消えてしまう兆候だと感じとったんじゃないですか?」
 九条は頭の中に様々な単語が浮かぶ。どれも断続的で、共通性もない。「多重人格障害の・・・もしくはその事件に負った傷の後遺症・・・」
 少し間をおいて、葵はため息をついた。しかし、口元には軽く笑みを浮かべているように見えた。
「・・・見直したよ。瞬、あんたの言うとおりだ。鈍感なイメージをもっていたが、改めないといけないな。確かに、その兆候は現れた。瞬も知っていると思うけど、涼子が瞬と顔を合わせなくなってからだ」
 鈍感は余計だが、とりあえずその問題はスルーしておこう。九条は夜勤明けの朝の出来事を思い出した。
「あの時私は、瞬に対して気を許していなかったからあんなセリフを吐いてしまった。もちろん、自分が消えてしまうという絶望感も後押ししてしまったんだと思う」
「・・・何があったんですか?」
 葵の瞳は涙ぐんだ。だがすぐに目蓋を閉じて天を仰いだ。そしてどれくらいの時間が経っただろうか。涼しい風が吹き、草木が、川が、そして雲がゆっくりと流れる。他に動くものは何も見えない。見えるのはそれらの自然のみ。葵はゆっくりと九条の顔を見た。
「・・・私たちの中の人格の一人が・・・急に消えてしまった」
「消えた・・・?」
「ああ。多重人格が治る兆候が現れた・・・っていうのなら良かったんだけど、どうやら違うらしい。その影響が、涼子にも現れている。それも悪い方向にね」
「・・・その症状などはまた今度聞くことにします。今は、オレがどうすればいいのか、です。オレがどう動けば涼子さんや葵さんを助けることができるんですか?」
「・・・それがわからないんだ」
 葵は首を振った。「原因は涼子の精神的なものかもしれない。だけど、私にもわからないんだ。涼子のことをずっと見ているけど、こんなのは初めてだ・・・」
 それを聞き、九条も困り果てた。目の前の彼女たちは困難な壁にぶつかっている。そのままぶつかれば間違いなく人格の消去、つまり『死』がまっている。
「医者には?」
「私が義母に頼んで連れて行ってもらったけど・・・。掛かりつけの医者も首を横に振るだけだった」
 医者にも治せない。そんな現状を、自分程度の人間に救うことができるのだろうか。しかも、何をどうすればいいのかもわからない。彼女たちの人格が消え、本人である涼子にも悪影響が出ている。もしかしたら涼子自身の人格さえ消失してしまう可能性もある。そうなると、彼女は植物状態となり再び眠り続けることになるだろう。いや、もう二度と目覚めることのない眠り。そう、『死』へと・・・。
「・・・わかりました。とりあえず、動いてみます。何かの役にたつのかはわかりませんが・・・」

 九条は小さな文字で並ぶ記事を眺め、ため息をついた。
何をすればいいのかわからない。そして自分に何ができるのかもわからない。それでも、自分では何もできないと決められたわけじゃない。九条は考えた。今彼女のためにできることを。
「今は・・・この犯人を捕まえることか」
 それが葵たちの人格消去を防ぐ術になるのかはわからない。それでも、今の自分にはそれしか明解な道がない。ならば今はそれに全力を注ぐだけだ。現状にできることがない分、わき見をする心配もなさそうだ。
 だが、どうやって捕まえる? この記事によると、犯人は未だ捕まっていない。ならばその犯人はどこへ消えてしまったのか。警察の捜査では凶器から繋がる人物を探ったらしいが、決定的にならなかったらしい。刃渡りのある刃物を販売している店を聞き込み、誰にどんな商品を販売したのか。そしてその持ち主に事情聴取等を行ったり、所持している刃物を調べたりしたのだろう。警察ならセオリー通りにそういう捜査をしていそうだ。
「だけど、犯人は浮かび上がらなかった・・・」
 ここでどれだけ考えても何の確証にもならない。全ては机上の空論に違いない。今は情報が圧倒的に不足しているのだ。「情報を集めるしかないか・・・」
 九条は記事を係の人に返し、図書館を出た。調べ物をするため、コンビニのバイトは夜勤だけにまわしてもらっている。そのため動けるのはこういった朝から夕方程しかない。それでも夜勤明けには多少なりとも睡眠をとらないと、涼子たちではないがこっちが身体を壊してしまう。それに、集中もできそうにない。それを思い、九条は軽く苦笑した。今まで深く考えることなく生きてきた。そのため、深く考えることの意味、そしてその辛さを今更ながらに知った。
「・・・全く、頭が痛い」
 だけど、悪くない。ただ平々凡々と時間を過ごすよりは、誰かのためにこうやって考え動く。それは妙に充実感を覚える。
 商店街から少し離れた通りを歩き、目の前に一軒の家を迎えた。表札には『水無月』の文字。玄関先に九条が立つと、チャイムを鳴らしたのでもないのに扉が開いた。そこには一人の女性が顔を覗かせた。
「あ、あなたは・・・」
 九条はその女性の顔を見て、その場面を思い出した。涼子が1週間の休みから復活して、バイトを再開したあの日。ゴミ捨ての時に涼子のことを聞いてきた女性。
「あなたが・・・涼子さんの・・・」
 女性は九条の姿をゆっくりと捉え、軽く頭をさげた。
「はい。私は涼子の義母。水無月あかりです」
 あかりは家の中へ腕を伸ばし「どうぞ」と招き入れてくれた。九条は言われるまま入り、客間へと案内してもらった。しばらくその部屋で待っていると、あかりがお茶をお盆に乗せてやってきた。
「どうぞ。お菓子もあるので遠慮せずにどうぞ」
 テーブルにそれらを置くと、あかりは九条の正面に座った。
「ありがとうございます。・・・実はあるお話をお聞きしたいのですが・・・」
「はい・・・。葵から聞いています。もし九条さんが尋ねてきたら、何も隠さずに話して欲しい・・・と」
 それは素直に家に招き入れてくれたことからもわかっていた。葵から話が通っているのならば話が早い。
「えっと、その前に・・・涼子さんは今学校ですか?」
「ええ。九条さんは大丈夫なんですか?」
「あ、ボクは後で取り戻すつもりです。それにどちらを優先したらいいか、わかっているつもりですよ」
 九条がそう言うと、あかりは改めて頭を下げた。何度も、「ありがとうございます」と繰り返して。
「あ、待ってください。お礼を言われるのはまだ早いですよ」
 九条は慌ててあかりを止めた。まだ自分に解決できるかもわからない。ただ空回りして終わる可能性だってあるのだ。
「自分に何ができるかはわかりません。もしかしたら何の役にもたたないかもしれない。それは前提においてください。ボクは特別頭がいい訳でもない。突出した能力もないただの大学生でしかない。それでも・・・あなたたちの問題に関わることを許してもらえるのなら、ぜひ過去に起こったことを教えて欲しい」
 あかりはゆっくりと顔を上げ、目の前の青年を見つめた。
「・・・もちろんお話します。あなたは涼子や葵が信頼する人だから・・・。」
「ありがとうございます。例の事件について、ボクは図書館に置いてあった記事を調べましたが、簡単なことしかわかっていません。その時の犯人が、未だ捕まっていないということぐらいしか・・・」
 九条はゆっくりと、丁寧にあかりに答えた。「今の現状がどうすれば解決するのかはわからない。もしかしたら全く関係などないかもしれない。だけど今の自分には、この犯人を追うことしか明確な目的を見出すことができないんです」
 あかりは九条の言葉を、しっかりと聞き、瞳を閉じた。
「わかりました。あの時の事件で、私が知っていることなら・・・」
「犯行時刻は22時から4時にかけてと記事にありました。葵さんの話によると、3時の時点で犯人はいなかった。つまり22時から3時以前ということになると思います。その時間の目撃証言を警察が聞き取りしていると思いますが、何か聞いてませんか?」
 あかりは顔を俯かせ、考え込んだ。もう長い年月が経っているから、その場面を思い出すのは時間がかかるかもしれない。時折哀しそうな顔も浮かべるのは、その事件の惨状を思い出しているのだろうか。
「・・・いえ。確かそういった人はいなかったと思います。時間が時間でしたので・・・」
 当然といえば当然だ。コンビニで深夜のバイトをしているが、その時間になると、来店客も1時間に1人という日もある。どうやらそういった方面から情報を得ることはできそうにない。
「それでは・・・涼子さんのお父さんとお母さん、山本良司さん、由香里さんの職場を教えてもらえますか?」
「姉と義兄さんの仕事場ですか? 姉は大宮病院で看護婦、今だと看護師ね。義兄さんは確か・・・名古屋の佐伯商事という会社だったと思います」
 九条は無い知識を振り絞った。大宮病院は耳にしたことがあるが、佐伯商事という会社の名前は聞いたことがない。会社なんて数多くあり、その会社名を知らないというのは当然だろう。
「そうですか、ありがとうございます。当面はその職場について少し調べてみたいと思います」
 何かの情報を職場の人間が知っているかもしれない。それは既に警察が調べているかもしれないが、年月が経って気付く内容もあるだろう。しかし、記憶が薄れて風化していっている可能性の方が高い。全く綱渡りのような捜査だ。それも、綱の先が続いているのかもわからない。ひょっとしたら途中で切れていてゴールなんてのは存在していないのかもしれない。ミステリー小説のように、探偵や警察が類まれな活躍をするようにはなかなかいかないなと九条は自分の無能さに心の中で笑った。
「ところで、涼子さんに何か異変はないですか?」
「葵からお聞きではないんですか?」
「涼子さんの人格の1人が消えてしまったということは聞いたんですが、それ以外は・・・」
「そうですか・・・。わかりました。これは何年も涼子を見ていて気付いたのですが、年が経つにつれて貧血を起こす頻度が増しているように思うのです」
「貧血?」
 その単語を聞き、九条はすぐにハッと気付いた。涼子の今までの運動音痴っぷり。あれは急に現れた貧血の症状だったのか。周りの人間に心配させまいと、貧血という事実を隠していたのかもしれない。
「それは・・・やっぱり例の事件に負った傷が原因ですか?」
「・・・はい。葵は一度起き上がって両親の元まで這ったと言っていましたが・・・本当なら動くこともできないくらいの重傷だった。死んでいても・・・不思議でなかったと医者の方は言ってみえました」
「えっと、その医者の方っていうのは先ほど言っていた掛かりつけの人ですか?」
「あ、はい。その事件以来、ずっと涼子を診てもらっています。もちろん、涼子はその事件を覚えていないのでその話は伏せてもらってますが」
 あかりはそういってその医者にもらったであろう名刺をテーブルの上に置いた。
『橘医院 橘 雅文』と書かれてある。橘医院というと、この水無月家に向かう途中に見かけた気がする。図書館から少し離れた場所にある個人病院だ。九条はその名刺を受け取った。
「それではこちらの方も伺ってみます」
 今は少しでも多くの情報が欲しい。警察がこの過去の事件を現在どう扱っているのかはわからないが、今の自分には情報を集めることしかできない。
 情報・・・か。あいつに借りをつくるのは後々面倒だが、一応頼んでみるか・・・。
 不意に、客間の扉が開いた。
「あ!」
 あかりは驚いて立ち上がった。「涼子、何で・・・学校に行ったんじゃ」
 九条も慌てて振り向いた。まさか今の話を聞かれていたのだろうか。涼子は俯き、何も言わずそこに立ち尽くしている。
「・・・涼子はあなたに惹かれている・・・」
 涼子は小さく呟いた。「そして・・・葵はあなたを信頼している・・・。なら・・・私は・・・」
 あかりはその目の前の人格が誰かすぐに気付き、駆け寄った。
「杏!」
「なら・・・私は・・・あなたと一緒に立ち向かう・・・」
 水無月杏は、ゆっくりと顔を上げて九条の顔を見て目を細めた。

『自分にできること』 完

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