『涼子の過去』

 お父さんとお母さん、そして私と2歳になる弟。4人で一緒に暮らしていた。お父さんは会社で「カチョウ」って呼ばれている。とても優しくて自慢のお父さんだ。会社が休みの時は、家族で一緒に遊びに連れて行ってくれる。幼稚園の先生が「優しいお父さんで羨ましいな」と言ってくれた時、すごく嬉しかった。
 お母さんは病院で「なーす」っていうのをやっている。「なーす服きたお母さんかわいい」と言うと、照れて可愛く笑う。私が大好きなオムライスなんて、すっごく上手に作ってくれる。でも1度褒めると調子に乗って3日連続でオムライスを作ってしまうのが欠点かな? でも美味しいから許してあげるんだ。
 そして弟の正樹。少し前まで寝ころんでばっかりだったけど、最近はよく走り回ってる。でもちょっと反抗的で、「イヤ!」という言葉を何度も言ってくる。私も少し前まではあんな感じだったのかな?
「涼子ちゃん、おはよー」
 涼子の友人のユカが遊戯室に入ってきた。2人は挨拶を交わし、服を着替えて荷物を自分の所定の場所に片付ける。
「涼子ちゃん何して遊ぶ?」
「えっとね、一緒にお本読もう!」
「じゃ、私これ読む!」
 朝の遊戯室は子どもたちにとって自由な空間となっている。女の子たちはぬいぐるみでおままごとをしたり、本を読んだり、ブロックを組み立てて遊んでいる。男の子はやはりライダーや戦隊モノの擬似遊びが広まっているのか、パンチやキックを繰り出してははしゃいでいる。それは時にやりすぎると、ケガを負うことにもなりかねないので担当の先生たちは大変だ。理解のある保護者ならばいいが、ヒステリー気味の親に当たると後が恐い。子どもなんていうのはケガをして当然。それが逆に元気な証であるのに、そういう親がいるから子どもの発達が遅れてしまうのだろう。
「ジュン先生が来たよー!」
 男の子が遊戯室の前で大きな声で報告した。ジュン先生というのは、担当の先生ではない。幼稚園の先生になるために現場に学びに来ている実習生なのだ。本名は「永田純一」というのだが、こういう場所ではファーストネームで呼ばれる。男の子の報告を聞き、子どもたちは勢いよく顔を覗かせた純一に飛びついた。
「うぁ! あ、危ないよ」
 純一は子どもたちの体当たりを何とか踏みとどまって笑顔で接した。純一がこの幼稚園に来てから3日が経っていた。男性職員というのは数が少なく、子どもたちからして見れば珍客この上ない。しかし警戒よりも好奇心の方が勝ったのか、この珍しい男の先生の取り合いが毎日行われる。
「ジュン先生! 何して遊ぶ?」
 男の子が純一の腕に掴まり聞いた。どちらかというと「先生」ではなく「遊び相手のお兄ちゃん」として子どもたちに受け取られているようだ。
「よーし、それじゃあ絵本でも読もうか」
「じゃあこれ読んでー!」
「違うよ。これ読んでもらうんだよ!」
「私これがいい!」
 こうなるともはや戦争である。子どもたちは1人1冊本を持ち出し、それを純一の前へ差し出す。純一は困ってオロオロしているが、涼子はその姿を見てクスクスと笑っていた。

 涼子は幼稚園の送迎バスを降り、迎えに来てくれていた母親に抱きつく。正樹も一緒だ。
「今日はお仕事お休み?」
「ええ。今日の夜ご飯は涼子の好きなオムライスよ」
「お母さん、オムライスは昨日も食べたよ」
「・・・オムライスはイヤ?」
 母親はとたんに悲しそうな顔を浮かべる。
「え・・・と。ううん、大好き。やったー!」
 違うものが食べたい、というのが本音だろうが母親の悲しそうな顔を見ると幼いながらにも対応してしまう。これではどちらが子どもかわかったものじゃない。
「でも明日は違うの食べてみたいな」
「うん、お母さんに任せて!」
 母親は腕まくりをして力強くガッツポーズをとった。3人は一緒に家に入り、母親は調理、正樹は室内用の柔らかいボールで遊び始めた。涼子はクレヨンを持ち出し、落書き帳に絵を描き始めた。どこにでもありそうな、平和な家族の姿である。
 19時。母親がテーブルにオムライスやおかずを並べ始め、涼子もそれを見て手伝いを始めた。今日は主食のオムライスに菜の花の炒め物。涼子はオムライスも好きだがこの菜の花の炒め物も好物だ。醤油とマヨネーズを一緒につけて食べるとこれがまた美味しい。他にも何品か並んだが、涼子はこの2品に狙いを定めた。
「マサ君。ご飯よー。こっちにおいで」
 母親が正樹を呼び、涼子と一緒に手洗いを済ませると、3人で食卓についた。父親はいつものように21時過ぎに帰ってくるのだろう。少し淋しいが、この3人でとる食事も慣れてきてしまった。
「涼子、さっき絵を描いてたでしょ? 後でお母さんに見せてね」
「うん、いいよ」
「涼子はお絵かき好きだからね。大きくなったら絵描きさんになるのかな」
「う〜ん・・・わかんないけど、でもなりたいものたくさんあるよ。その絵描きさんにもなりたいし、お花屋さん、ケーキ屋さんにも。あ、あとお父さんのお嫁さん」
「ダメ。お父さんはお母さんのだからダメよ」
「えー・・・ケチ」
 2人はそう言って互いに笑った。涼子にとってお母さんはお母さんだが、どちらかというと友達に近いような感じがしている。たぶん母親は、誰に対しても気楽に接することのできる雰囲気があるのだろう。
 食事を終え、3人一緒にテレビを見る。これがいつもの日常なのだ。この時間だといつも正樹が喜ぶアニメが始まっている。それを見終わると、お風呂に入って歯磨きをする。そしてそろそろ寝る時間になると父親が帰ってきた。
「ただいまー・・・」
 玄関先で聞きなれた父親の声が響いた。涼子は正樹を連れて急いで向かい「おかえりなさい」と笑顔で迎える。少しして母親もやってきて「お疲れ様」と父親の仕事疲れを労ってカバンや上着を持って一緒に居間へ入った。
「ふー・・・。すっかり寒くなってきたなぁ。今晩もしかしたら雪が降るかもしれないから、風邪引かないように気をつけなさい」
 父親はそう言って食卓についた。確かに涼子も肌寒さを感じていた。もう12月。雪が降ってもおかしくない。自分は幼稚園で雪遊びができるからいいが、父親にとっては電車等の交通機関が麻痺してしまう難敵であるから複雑だ。
「オムライス、温めなおすね」
「おい、またオムライスかい? 昨日もそうじゃなかったかな」
「だって・・・」
 母親が「涼子の好物なんだもの」と悲しい顔で言う前に、父親が「いやー、美味そうだな!」と苦笑してスプーンを手にした。母親の扱いにはもう慣れたらしい。母親は嬉しそうな顔をして料理を温め直しに行った。
「お父さん、お疲れ様」
「はは、ありがとう涼子。でもそれは仕事の話? それともお母さんの話かな?」
「う〜ん・・・両方かな」
「ははは、ありがとう」
 父親は妙に気が利く娘の頭を、優しく撫でて笑った。「さ、もう遅い。今日は寝なさい」
「うん、おやすみなさい」
「あ、明後日お父さんとお母さん仕事休みだから、皆でどこかに遊びに行こうか」
「え、本当? やったー! どこ行くの?」
 涼子のその表情を見て、父親はしまったと感じた。どうやら嬉しさで眠気が完全に飛んでしまったらしい。自分の失態を悔いたが、やや諦めて涼子を自分の膝に据わらせた。母親が温め直した料理をテーブルに置き、食卓は再び賑やかになった。
「私、遊園地に行きたい!」
「あ、私も行きたい。ね、涼子もこう言ってるし、遊園地にしましょう。ね、いいでしょ?」
 母親のお願いには逆らえそうにないオーラが滲み出ている。恐さはないのだが、言うとおりにしてあげたくなるオーラというのだろうか。その点は父親も覚悟していたのか「よし、じゃあ遊園地に行こう」と素早く決心した。
「よし、それじゃ涼子は早く寝て、明後日に備えなさい」
 今寝てなぜ明後日に備えることになるのかわからなかったが、涼子は父親の言うとおりに寝室へと向かった。
「お父さん、お母さん。おやすみなさい」

 これは夢だ。
涼子はなんとなくそう感じていた。天地がはっきりしない闇。その場に留まっているのか、それとも落ちているのかもわからない。ただわかるのは、この状況は自分ではどうしようもできないということだ。
「痛い・・・」
 涼子は胸を押さえた。今まで感じたことの無い激痛が走る。声も出すことができない。その激痛は次第に、身体全体に廻りだした。
痛い痛い痛い痛い!
 必死にもがくが痛みが緩和されることはない。
助けて! お父さん! お母さん!
 目の前の闇に向かって必死に腕を伸ばす。
イヤだ! 痛いよ! 助けて!
 涙を流して虚空に助けを求めるが、一向に変化が現れない。しばらくすると、身体中の力が抜けて全く動けなくなってきた。諦めかけたその時、自分の掌に人の温もりが触れた。涼子がゆっくりと見上げると、本来は暗闇で何も見ることができないが、そこには父親が立っているような気がした。
お父・・・さん?
「・・・」
 掌に触れる温もりの主は何も答えようとしない。でもわかる。この温もりや感じは絶対お父さんだ。その場をじっと目を凝らして見ていると、お父さんの横にお母さんも立っている。お母さんの腕の中には正樹もいる。少しずつ暗闇が晴れてきた。闇が完全に晴れることはなかったが、目の前にいる人たちの顔が見えるくらいには晴れていた。やはり、そこにいたのはお父さん、お母さん、正樹であった。しかし、とても哀しそうな表情を浮かべている。
・・・どうしたの? 何でそんなに泣きそうな顔をしているの?
「・・・涼子。」
 父親がゆっくりと口を開く。それはとても沈痛な表情だった。「・・・ごめんね。約束守れない」
 父親がその言葉を発すると、彼らの姿が次第に薄くなってきた。
・・・イヤだ。消えないで・・・。私も一緒に連れてって・・・。
「涼子は・・・来ちゃいけない」
 父親のその言葉を最後に、彼らの姿は完全に消え去った。
「お父さん・・・」
 涼子はゆっくりと目を開ける。見覚えのある、いつもの寝室だった。やっぱり夢だった。嫌な悪夢だ。
「痛い」
 少しずつ頭が覚醒していくにつれて、身体中が全く動かないことに気が付いた。それは、身体中を走る謎の激痛のせいだ。少しでも動こうとすると泣きそうなほどの痛みが走る。痛みを我慢して何とか仰向けになった。隣には正樹が眠っている。
「・・・喉が渇いた」
 汗をかいたのか、すごく喉が枯れている。それに口の中に妙な味が広がっている。まるで錆びのような臭いだ。この痛みではなかなか動けそうもなく、両親に助けを呼ぼうと思ったのだが寝室にその姿はなかった。まだ、居間にいるのだろうか。
涼子は重くなった身体を引きずり、階段まで這った。
時計を見ると深夜3時を指している。両親はこんな時間まで起きているのだろうか。次第に居間の明かりが見えてきた。その時になって自分の異変に気が付いた。自分の着ているお気に入りのピンクのパジャマが真っ赤に染まっている。そして身体中に無数の切り傷が残っているのだ。
「痛いよ・・・」
 その自分の姿を見て、余計に痛みを感じてきた。まだ数箇所の傷は血が止まっていない。急いで両親に助けてもらおうと身体を引きずりながら階段を降り、居間の扉を開けた。
「お父・・・!」
 言葉を失った。目の前の惨劇を視界に入れても、現状が全く把握できなかった。床が、カーテンが、そして、父と母の全身が、真っ赤に染められていた。父と母は力なく横たわっている。涼子はそれを見て必死に両親の元へ這った。そして父親の手を握る。
「・・・冷たい・・・」
 ベッドに入るまで一緒にいてくれた父の優しく暖かい大きな手は、まるで氷のように冷え切っていた。「お父さん・・・お母さん・・・」
涼子はそこで力尽きて倒れこんだ。次第に暗闇が意識を支配していった。

「・・・次に目が覚めたとき、私たちは私たちじゃなくなっていた・・・」
 長く、そして辛い記憶を葵は悲痛な表情で語った。九条はその葵の顔を見て、どう声をかけてよいものか悩み俯いている。
まさか、涼子のこのような過去があるとは思いもしなかった。確かに多重人格障害は、幼年期の何らかのショックで引き起こす。しかし、考えていた以上の悲劇を彼女は抱えていたのか。
「・・・父と、母と、弟を亡くし、そして自身も重症を負っていた私たちは1年間眠り続けた。肉体的にも、精神的にも大きな傷を負って・・・」
「そんなことがあったなんて・・・。涼子さんはいつも明るくて、そんな気配は微塵もしなかったから・・・」
「それはそう。涼子はそのことを覚えていない。あまりのショックでそれまでの過去の記憶を封印してしまった・・・。今は母の妹にあたる叔母の娘として育てられているけど、涼子は本当の娘だと思っている。もちろん、他人格の私たちも本当の母のように接している」
「・・・他人格の私たち?」
 九条はその言葉に引っかかりを覚えた。「葵さん。あなたの他にも人格があるのですか?」
 葵はゆっくりと目を閉じた。また別の人格が現れるのかとも思ったが、そうではなく、ただ思案に耽っていただけらしい。
「・・・ああ。あいつらは滅多なことでは表に出てこないけどね。九条瞬、あんたに心を開けばいずれ出逢うこともあるだろう」
「と、いうことはまだ葵さん以外はオレのことを警戒しているということですか?」
「そうなるね」
 葵は苦笑した。「まぁ、私たちは普段の涼子の目を通してお前を見ている。涼子とお前はいつも一緒にいるからそう遠い日のことじゃないと思うけどね」
「涼子さんはどこまでこのことを知っているんですか?」
「何も知らない」
「それは、過去のことも、自分が多重人格だということも・・・ですか?」
「そういうことだ」
 九条は思案に耽った。確かに、今までの涼子はそういった様子を見せていない。それならば色々説明がつく。しかし、これからどうすればよいのだろうか。確かに彼女が多重人格障害だということは理解できた。そして、保護人格である葵ともコンタクトをとることもできた。すると、最後の疑問が浮かび上がる。葵が言った「助け」である。葵と最初に会ったときに彼女はそう言った。それはこの障害を治すことを意味しているのだろうか。それとも・・・。
「葵さん。最初に会ったとき『輝きを失う瞬間が近づいてきている』といいましたね? あれの意味を教えてください」
「・・・」
 葵はその内容を話していいものか月を見上げながら考えている。やはり、その答えはとても深刻な問題のようだ。九条は葵が答える前に聞いた。
「それは・・・涼子さんという人格、いえ・・・葵さんも含めた全人格が消えてしまうという内容ですか?」
「え・・・なんでそれを・・・」
 葵は今まで侮っていた目の前の男を、驚いて視野に入れた。九条は嫌な予感が的中してしまったと、胸の鼓動が早くなるのを感じた。

『涼子の過去』 完

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