『決意』

「輝きを失う瞬間」
 確かに彼女はそう言った。それも、自分を指して。
「涼子・・・さん?」
 今までと感じの違う涼子に対し、九条は戸惑っていた。まず、自分の事を「私」ではなく「涼子」と言っている。まるで目の前にいる人物が涼子でないような言い方だ。幼い子どもならば自分の名前を一人称として呼ぶかもしれないが、涼子の場合は「私」というのが一人称であると記憶している。
 涼子・・・いや、目の前の女性はベンチから立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。九条も慌てて後を追いかける。
「九条瞬、お前に話がある」
 女性は背を向けたまま言った。
「あの・・・その前に聞きたいことが。あなたは涼子さんではないですね?」
 九条は疑問をぶつけた。自分でも訳のわからないことだと思っている。目の前の女性は間違いなく涼子の姿をしている。今日半日一緒にいた女性は間違いなく涼子だ。しかしすぐそこにいる女性は涼子ではない。姿は同じでも、雰囲気が違う。九条は普段あまり使わない集中力を駆使して考えた。
 双子?
いや、違う。涼子とはずっと一緒にいた。数回お手洗いに行ったこともあるが、その時に入れ替わった? いくら何でもそれはないだろう。万が一双子説が正解だとしても目的がはっきりしない。
 からかっている?
それも違う。涼子と一緒にいる期間は1ヶ月ちょいとまだ短いが、このような雰囲気の姿は見たことがない。例え、こういった一面があったとしても目の前にいる人物からは、涼子を微塵も感じさせない。これは一種の勘に違いないだろうが、別人だと確信する。
 そうなると、答えは一つ。
「多重人格・・・」
 九条はボソッと呟いた。ドラマや小説の世界ではたまに出てくる設定だが、今までそういう人物を見たことがない。まさか目の前の彼女がそうだったのだろうか。しかし、そうだとすると今までの違和感も納得のいくところがある。
 涼子の姿をした女性はくるりと振り向き、九条の瞳を見つめた。
「・・・・・・そう。私は涼子の保護人格だ」
 女性は真剣な表情で答えた。九条は多重人格、つまり解離性同一性障害についてあまり詳しくはないが聞いたことはある。普段表に出ている主人格。そして人格交代システムや、肉体を守る行動をとっている保護人格のことを。
「ちょっ・・・ちょっと待ってくれ。少し頭が混乱してきた」
 九条は手で会話を遮り、近くのベンチに腰を降ろして頭を抱えた。
「気持ちはわかる。だが、これは事実なんだ。私たちは幼い頃から多重人格障害を抱えている」
 女性は先ほどまでと違い、穏やかな声で話し始めた。「九条瞬。もし君が私たちの現状をしっかりと受け止めてくれるのなら・・・私たちを、涼子を助けて欲しい」
 女性はそれだけ言うと、九条に背を向けて歩き出した。
「また明日、このセミナーが終了した後にもう一度聞く。それまでに考えておいてほしい」
「待ってくれ」
 九条は顔を俯かせたまま、彼女を引き止めた。「君の名前を教えてくれ」
 彼女は足を止め、そのままの状態でゆっくりと口を動かした。
「・・・葵。水無月葵だ」

 今日もええ日和や。
飛鳥菜々美は朝の陽射しを浴びてゆっくりと背伸びをした。すぐ近くでスズメがチュンチュンと鳴いている。
「おはようさん、スズメはん」
 飛鳥は窓を開けて彼らに挨拶をした。彼らも「チュンチュン」と挨拶をしてくれた・・・ように思える。
飛鳥は高校3年生。今年はもう受験生である。母親からは家を継ぐために修行をしてほしいと言われているのだが、飛鳥にはまだまだ学びたいことがたくさんあるのだ。もちろんいずれは家を継ぐことになるのだろうが・・・。
 飛鳥は身支度を整え、居間にいる母親と顔を合わせた。母は生粋の京都人で、ここ飛鳥舞踊の15代目に当たる。現在日本舞踊は多岐に渡り、約200流派以上が存在し、舞踊の有名どころというと、花柳流、藤間流、若柳流、西川流、坂東流という五大流派を思わせる。我が家の飛鳥流は、さほど大きくはないが先代たちが立派に受け継いできたという事実は飛鳥にとっては自慢であった。
「ナナ、おはようさん。今日はアルバイトおますん?」
「バイトはあらへん。今日は知り合いと一緒にでかけるの」
「そう。気をつけて行っておいない」
「おおきに」
 飛鳥は母に礼を言い、簡単な朝食をとって家を出た。それにしても久々の休み。いつもならバイトの接客業に勤しんでいる時間帯だ。バイトはつらいこともあるが、良いこともある。それは友人ができたことだ。1度会ったばかりだが、それでも自分はあの人たちに好感をもった。普段ならば男性に対して警戒するのだが、あの人の場合は違った。頼りないとこもあるかもしれないが、一緒にいた女の子に振り回されているのを見て、優しい人なのだと感じた。そういった対応をされても、仕方なくにしても一緒に付いてきてくれるのだろう。ああいった男性は初めてだ。と、いっても普段から男性に対しては疎遠なのだ。父がとても厳しい人で、そういった相手に対しては鬼のように迫る。中学の頃に一度男友達を家に連れてきた時など、すごかった。無理やりその友達を居間に連れて行き、互いに座ってにらみ合い。と、いっても父が一方的に無言の圧力をかけているだけで、友達は俯いて震えていたが・・・。結局3分ほどして根気負けしたのか、友達は「ごめんなさい」と言って帰っていってしまった。
「お父ちゃんはうちを結婚させへん気なんや!」
 飛鳥はブスっと口を尖らせた。高校の友人たちに彼氏ができると、喜び半分不安半分という気持ちになる。大学にでも行けば何かが変わるかもしれないという淡い期待を抱きながら今を生きている。
「あ、お待たせしました。えっと飛鳥さん?」
「ナナでええよ」
 待ち合わせをしていた場所に、2人が走ってやってきた。9時30分という約束だったが、彼らは10分前に到着した。時間には律儀なのだろう。30分前から来ている自分が、とても張り切っているようで妙に恥ずかしく思えた。
「えっと・・・水無月はんに九条はん。今日はよろしゅう」
「こちらこそ。今日は案内お願いしますね!」
 涼子は可愛らしい表情で答えた。やはり、この女の子が自分より2つも年上だとは到底思えない。九条は涼子とは対照的に、妙に大人びて見える。落ち着いているからそう見えるのだろう。
「「そんなら、行きまひょか」
 九条と涼子は飛鳥を案内に、動き出した。

「ここが酬恩庵どす」
 飛鳥がその建物を背に、それを紹介してくれた。酬恩庵というと、あの有名な「一休」が浮かぶ。ここで一休は63歳頃から88歳で亡くなるまで住んだと言われている。一休というとあのとんちを行う姿を思い出させる。九条は一休の知恵を借りたいくらいに考え込んでいた。それはもちろん水無月葵の件である。
「九条君、どうしたの?」
 今まで会話らしい会話をしていなかった九条が心配になったのか、涼子は浮かない顔で覗き込んだ。「気分でも悪い?」
「いえ、大丈夫ですよ」
 正直言ってあまり大丈夫ではない。あの後からずっと考え込んで、ろくに眠ることもできなかった。普段こんなにも考え込まないから、知恵熱でも出ているのかもしれない。しかし、九条は2人を心配させまいと笑顔で振舞った。
 酬恩庵のエピソードもそこそこに、近くの店で売っていた一休寺納豆を購入して他の場所に向かった。
 暫く京都の町を観光し、昼食をとることになった。飛鳥のお勧めで今宮神社近くの店で軽く食べることにした。
近くまで来ると、香ばしい匂いが立ち込めて食欲をそそられる。多少の睡眠不足も吹き飛んでしまいそうだった。
「ここではあぶり餅が売ってまんねん。とってもおいしおすよ」
 飛鳥が目の前の店を紹介してくれた。正面には「かざりや」と書かれている。背後には同じようにあぶり餅を焼く「一和」という店があった。両店舗とも同じ商品を売っており、声を張り上げて客寄せをしている。いわば商売敵というやつなのかもしれない。コンビニでバイトしているからわかるが、こういったライバル店というものの出現は大変な脅威だ。少しでもサービスや品質を落とせば売り上げに大きく関わってしまう。コンビニに限らず、どの業界でもそういったものの出現で切磋琢磨し、のし上がっていっているのだろう。
 3人はそれぞれあぶり餅を1人前ずつ注文した。1人前で15本500円は大変安く、苦学生の自分にとっては嬉しい価格だ。一口頬張ると、味噌の甘みときな粉の香ばしさが口の中で溶け合う。九条はもともと餅が大好きで、雑煮など後から後から腹の中に入ってしまう。もち米を使用した赤飯なども、普段のご飯では食べれないくらいの量もペロリと平らげてしまうほどだ。餅にこういった調理法があることを知ることができて、九条の睡魔は完全に吹き飛んだ。
「九条はん、元気でたみたいや」
 飛鳥はニッコリと笑った。どうやら、ずっと心配してくれていたらしい。それは涼子も同じのようだ。九条が勢いよくパクパクと食べている姿を見て、安心して餅を頬張った。その涼子の笑顔を見て、九条は決心した。
 その後も飛鳥にたくさんの場所を案内してもらい、ついに別れの時間がやってきてしまった。名残惜しいのか、飛鳥は寂しそうな表情を浮かべている。
「飛鳥さん、今日は本当にありがとう。おかげで最後に充実した日を過ごせたよ」
「九条はん、嫌やわ。最後なんて言わんでまた遊びに来てちょうだい。また案内してあげるさかい」
 気持ちは嬉しいが、京都なんてなかなか来る機会は少ないだろう。しかしそれでも、近くに寄ることがあるのならまた彼女に会ってみたい気分になった。
「それじゃ、また遊びに来たときにはお願いするよ」
「それじゃ、本当にありがとう。ナナちゃん、こっちの方にも遊びにきてね」
 九条と涼子はいったん手を振って離れたが、何かを思い出したように九条が駆けてきた。
「忘れてた。これを渡しておくよ」
 九条は自分と涼子の連絡先が書かれた紙を飛鳥に手渡した。これが無ければこの広い京都の町を再び会うことなど無いに等しい。全く、とんだものを忘れていたと九条は苦笑した。
「それとこれは案内してくれたお礼」
 九条は懐の中からエメレルドのペンジュラムを取り出した。「子どもの頃から持ってるオレの宝物だけど・・・もしよかったらもらってくれないかな?」
「え? そないな物受けとれまへん」
 飛鳥はビックリして両手を目の前で交差させた。
「いいから。子どもが遠慮するな」
 九条はそう言って飛鳥の手にペンジュラムを握らせた。「もしいらないようだったら捨ててくれてもいいから」
「うちは子どもではおまへん」
「子ども」という単語に引っかかったものの、飛鳥はそこまで言うなら素直に受け取ることにした。「捨てまへんよ」
 飛鳥がペンジュラムをしっかりと受け取ると、九条は軽く笑って去っていった。飛鳥はしばらく2人の姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くし、軽くため息をついた。
 またいつか、会える気がする。

 セミナーが終了し、生徒たちは学校に戻ってきていた。それぞれ帰路につく。
九条と涼子も、帰路についてしばらく歩いていた。
「楽しかったね!」
 涼子は振り向いて笑顔で言う。
「そうですね」
 九条も笑顔で答える。すると、涼子の様子が急に変わった。急に俯き、足を止めたのだ。そして少しの時間刻が止まったかのように思えた。
涼子はゆっくりと顔を上げた。いや、もうそこにいるのは涼子ではないのだろう。彼女はすっと瞳をこちらに向けた。
「葵さんかな?」
「ああ。昨日の答えを聞きたい」
 葵は空に浮かび上がった月を見上げた。「もう少しくらいなら考える時間をやってもいいが」
 「結構ですよ」
 九条は近くの川の土手に座り込んで言った。葵も九条の後に続き、川の近くに歩を進める。
月光が川の水面に反射し、葵の姿を神秘的に映し出す。
「どうやら聞くまでもないようだ。お前のその顔を見ればわかる」
 葵は軽く微笑んだ。それは涼子の笑顔とは違い、儚げに映る。「お前を見ると、涼子が選んだ理由もわかる気がするよ」
「そ、そんなことより詳しい話を教えてください」
 九条は無性に照れくさくなって、顔を真っ赤にして話を逸らした。
「ははは」
 葵は楽しそうに笑った。「いいだろう」
 葵はゆっくりと歩き出し、九条の隣に座った。
「どこから話せばいいものか・・・。あれは涼子・・・いや、まだ私たちが1人の涼子という人間だったときのことだった」
 葵は天に仰ぐ月を眺めながら、ゆっくりと昔語りを始めた。

『決意』 完

 NEXT→

inserted by FC2 system