『C』





 母は目覚めなかった。
手術を終えた母は、安らかな寝息をたてて眠っている。
・・・眠り続けている。

 私は今日も学校を休み、兄と一緒に母が眠っているこの病室で母の手を握っていた。
「・・・お母さん・・・」
「・・・和奏・・・」
 兄はそっと私の肩に手を置いた。「お前、最近寝ていないだろう。母さんはオレが看ているから、少し休んだ方がいい」
「でも・・・」
「ここでお前まで倒れてしまったら、看病しないといけなくなるのはオレなんだ。だから・・・休め」
 兄は優しい笑顔で私にそう言った。それはとても暖かい言葉だった・・・。自分が心配だという言葉だが、私は兄の妹を何年もやっているのだ。兄は私を心配し、そのように言ってくれたということはすぐに分かった。
私はその言葉を聞き、小さく肯いた。
私は病室を出て、ゆっくりと病院内を歩く。私は病院がきらいだ。この鼻にくる消毒の臭いがすごく苦手で、病気になると母に無理やり連れてこられ、泣いてしまっていた過去を思い出してしまった。その母の厳しくて、でも心の奥底ではとても優しい顔を思い出し、目頭が熱くなる。病院から自宅にたどり着くまでの間、その母の顔が離れなかった・・・。


 家に着くと、玄関前に綾歌が立っているのに気づいた。
綾歌はとても心配そうに、今にも泣き出しそうな顔を浮かべながら私に歩み寄ってきた。
「・・・あの・・・その・・・和奏ちゃん・・・」
「・・・綾歌ちゃん、私なら大丈夫だよ」
「でも・・・和奏ちゃんのお母さんが・・・」
 綾歌はついにポロポロと涙を流してしまった。実の娘の私が空元気ながらも笑顔を浮かべているというのに、これでは立場が逆だ。でも綾歌は優しいから・・・優しいから私の代わりに泣いてくれる。私は綾歌と抱き合い、悲しみを分かち合うかのように立ち尽くした。
 そしてどれくらい泣いただろうか・・・。綾歌も泣きつかれ、眼も赤く腫らしてしまった頃に私は彼女を自分の部屋に招きいれた。綾歌は私の部屋に入って私の前でそっと座った。私はそんな綾歌を見て、軽く笑みを浮かべた。
「・・・私、今度クラスの皆に謝らないといけないね・・・」
「謝るって何を?」
「・・・音楽発表会のこと・・・。瞬兄ちゃんがしばらく欠席するって連絡しちゃったから・・・参加を辞退しちゃったんだよね?」
 音楽発表会は本当ならば明日、参加するはずだった。しかし私が急遽休むことになってしまったため、ピアノを演奏する人材がいなくなってしまったのだ。私以外にもピアノを弾ける子は何人かいるが、残りの時間で発表する曲を弾けるようにするというのは少し難しい。そういう理由で担任である神蔵が校長に話を通し、不本意ながらも辞退を決意したのだ。
「・・・たくさんの人に・・・迷惑かけちゃったね・・・」
「私は迷惑だなんて思ってないよ」
 俯く私に、綾歌はそう答える。「クラスの皆も・・・和奏ちゃんのこと分かってくれてるよ。だからそんなこと言わないで・・・」


 綾歌はそう言ってくれるが、たくさんの人に迷惑をかけてしまったことは事実なのだ。発表会を楽しみにしていた子もいるだろうし、子どもの雄姿を心待ちにしていた親もいたかもしれない。そんな人たちの楽しみを、私の勝手で奪ってしまった。それを思うと、悲しさと同時に、申し訳なさがこみ上げてくる。

「・・・私に・・・何ができるんだろう・・・」
「え?」
「お母さんに・・・迷惑をかけちゃった皆に・・・私に何かできることあるのかな・・・」
 私は顔をそっと上げ、目の前の綾歌に聞いた。
病院で・・・あの不思議な空間でエキが言った言葉。
この先は・・・私次第なんだ。でも自分に何ができるのか、こんな自分に・・・果たしてできることがあるのかすら分からない。その自分の行く末を求めるかのように綾歌の顔を窺うが、自分自身でも理解している。


 ・・・これは自分で考えなければいけないことなんだ。








 その日、私は心配する綾歌を説得して、礼を言って帰ってもらった。
その直後、私はすぐにレッスン室へ駆け込んだ。そして目の前に佇む大きなピアノを視界に入れる。


・・・私にはこれしかない。

「ごめんなさい」という在り来たりな謝罪の言葉しか浮かばない私にできることは、自分の気持ちをこのピアノの旋律に乗せて聴いてもらうことしかないんだ。

「お母さん・・・皆・・・ごめんね・・・」
 私は震える腕をピアノに伸ばし、白い鍵盤に指を置く。「私の音を・・・聴いて・・・下さい」
 私がそう呟くと、閉めたはずのレッスン室の扉がゆっくり開けられてゆくのに気がついた。私がそちらに視線を向けると、そこには先ほどまで一緒にいた兄が立っていた。
「瞬・・・兄ちゃん?」
「・・・母さんの傍を離れてごめんな。でもオレにもできることがあると気づいたんだ」
 兄はそう言って私に近づき、そこにあったピアノを眺めた。私が首を傾げていると、兄は優しく微笑んだ。「皆の前で・・・弾くんだろ?」
「え・・・」
「和奏なら・・・そうすると思ったんだ。違うか?」
「・・・ううん」
 兄は・・・私の気持ちを一番分かってくれていた。私の心の痛みを、そしてこれからどうしたいかを、察してくれている。それに私は驚いて目の前の兄を改めて見つめた。兄はこういうところで妙に勘がいい。人の気持ちを、状況を、まるで自分のことのように考えているとでもいうのだろうか。それは昔から今も変わらず続いているようだ。私は驚いた顔を浮かべたものの、クスリと笑った。
「・・・? 何か可笑しかったか?」
「ううん。変わってないなと思ってね」
「?? ・・・まぁ、オレもお前を手伝う。オレにできることがあれば、何でも言ってくれ」
「・・・ありがとう。それじゃ・・・」
 私は頼りになる兄に耳打ちをして、これからのことを説明した。私の希望を聞いて兄は一瞬戸惑っていたものの、すぐに「仕方ないな」と笑っていた・・・。










 ・・・翌日、私は母が入院している病院の前で立っていた。
私の祈りが通じてか、天気もよく雲ひとつない。私は母がコンクール用に準備してくれた白いドレスを身に纏い、病院に受診しにきた人々の注目を浴びていた。普段の私ならばとてもじゃないが、恥ずかしくて胸を張って立っていることなどできないだろう。でも今の私はそうした人々の視線なんて、不思議に塵ほども気にならなかった。


 数分ほどして、私の隣に大きなトラックが停車した。そのトラックの助手席側から兄が降りてきて、私と同じように病院の母が眠り続けている病室を眺めた。
「・・・母さんに・・・届くといいな・・・」
 兄のその言葉に、私は首を横に振った。
「ううん。絶対に届かせてみせるよ」
 私のその言葉を聞き、兄は嬉しそうに微笑んでいる。しかし兄はすぐに「始めるか」と呟くと、トラックを運転してきた兄の知人と思われる男性に手を振った。その知人の男性は赤い髪が印象的で、日本人でないように思える。兄が外国人のその赤髪の男性とどういう経緯で知り合ったのかも気になったが、今の私にとってはとても些細なことだった。その男性はトラックの背部を開け、中に納められていた自宅のピアノを降ろして私の前に運んでくれた。
「ありがとう」
 私がその男性にお礼を述べると、その人は微笑んで「頑張りな」と応援してくれた。


 私は白いドレスをなびかせ、ピアノの前の椅子に腰を降ろした。そして・・・ゆっくりと腕を上げる。

「お母さん・・・私の音を・・・聴いてください」

 私は気持ちを込めて・・・指で音を奏で始めた。
今弾いているのはドビュッシーの『月の光』。この曲は本来好きな人に対する熱情のものだが、この旋律は今の私の気持ちと通じるところがあると感じている。この緩やかで、何かに語りかけるような旋律・・・それに私の母への思いを乗せて奏でる。

音が・・・旋律がどこまでも響いている。
私の指が鍵盤に触れるたびに、私の胸が熱くなる。

私の前にはピアノと青い空。

数分後にはいつの間にかたくさんの人々が私を囲んで音を聴いてくれていた。その人たちの気持ちも・・・この旋律を通して触れることができるような気さえする。

その曲が終わると、私の隣に綾歌が立っているのに気づいた。綾歌だけではない。私のクラスの子が全員、そこで集まっていた。
「・・・綾歌ちゃん・・・皆・・・どうしてここに?」
 私がそう訊ねると、目の前にいた綾歌はクスリと笑う。
「和奏ちゃんのお兄さんが・・・神蔵先生に頼みにきたの。『和奏が病院にいる。皆で・・・来てほしい』って・・・」
「瞬兄ちゃんが?」
 私は綾歌の後ろにいた神蔵に視線を移した。神蔵は苦笑しながら「校長を丸め込むのに苦労したよ」と顔を引きつっていた。当の兄はもう既にこの場からいなくなってしまっていたが、私は兄を思い浮かべて苦笑した。・・・本当に、私のことを考えてくれるんだな・・・。


 綾歌は私の手をとり、微笑んだ。
「和奏ちゃん・・・お母さんに伝えようとしてるんだよね。私には歌うことしかできないけど・・・私にも手伝わせてよ」
「え・・・?」
 私が綾歌の顔を見上げていると、他のクラスメイトたちも次々に駆け寄ってくる。
「私も・・・一緒に歌うよ」
「オレも九条のお母さんに起きてほしいから」
「同じクラスの仲間なんだから、ボクたちも手伝いたいよ」


 皆は・・・私を囲んでそう言ってくれる。私は皆の優しさに触れ、嬉しさのあまり頬が震えてしまった。涙が溢れ、視界がボヤけながらも、私は仲間たちを見失うことなく見上げていた・・・。
「・・・ありがとう・・・ありがとう・・・」
 私は涙を堪えることができず、顔がクシャクシャになってしまうほどポロポロと頬を濡らしてしまっている。その私を見て「泣かないで」と慰めてくれる友達もいた。
「・・・九条さん。仲間もこう言ってくれてるんだよ」
 神蔵が言う。「皆で九条さんのお母さんに届くように、一緒に歌おうよ。九条さんはピアノを・・・ボクたちは歌声をね」
「先生・・・」
「さぁ・・・皆! 今日は最高の発表会にしよう!!」
 神蔵は周りのクラスメイトに大きな声で呼びかけ、その声に応えるように皆も大きな声をあげる。皆はすぐに音楽発表会のように整列し、病院を一斉に見上げた。指揮者が私に合図を送る。指揮者の腕が旋律の始まりを告げ、私と・・・皆で・・・音を響かせていった。


・・・皆・・・本当にありがとう・・・。

お母さん・・・私は・・・こんなにも音楽が好きになったんだよ。

だからお母さん・・・私のこの音を・・・・・・聴いてください・・・・・・・。









 母の病室。
そこで窓から演奏を聴きながら瞬はその集まりを眺めていた。妹の・・・そしてその仲間の旋律を。
「・・・母さん、聴こえてるか? あいつが・・・和奏が・・・大切な仲間と一緒に作り出しているこの旋律を・・・。母さんに聴かせるために・・・和奏はこうして弾いているんだ。母さん・・・聴いてあげてくれよ・・・」
 瞬がそう眠り続けている母に声をかけた時、母の表情に僅かだが変化が生じた。目蓋がピクリと動き、ゆっくりと目を開け始めたのだ。
「母さん!」
「・・・良い音ね」
 瞬が駆け寄ると、母は開口一番にそう言って微笑んだ。「音を聴けば分かるわ。これは・・・和奏の音ね。とても・・・気持ちのいい音・・・。和奏・・・あなたの旋律・・・届きましたよ」
 母はそう微笑んでいた。










【エピローグ】

 私は今、ピアノコンクールの会場で自分の番を待っていた。
「・・・まだ・・・あれから一日しか経ってないんだなぁ・・・」
 そう呟き、昨日の光景を思い出した。病院の前で『月の光』を演奏し、クラスの仲間と一緒に歌ったあの光景を。
その後も私はピアノを演奏し、見物客たちの間を縫ってきた兄に母が目覚めたという知らせを受けたのは2時間が過ぎてからであった。私はその場で再び嬉し泣きをし、クラスの皆も一緒に喜んで泣いてくれていた。
 しかし当然のことながら、病院側からはお叱りの言葉を頂いてしまった。何の知らせもなしにそういう演奏会を始めてしまったことで、責任者の神蔵はその日に減給を宣告されたらしいが、当の本人は「そんな些細なことは気にするな」と笑っていた。本人曰く、「生徒のためならどんなことでもするのが教師」らしい。しかし今日、朝刊を覘くとそこには市の音楽発表会の記事の隣に私たちのことが載っていた。『もうひとつの発表会』という見出しがつけられ、恥ずかしいことに私のドレス姿が撮られていた。そこに病院側から、名前は伏せてあるが意識不明の患者が、その発表会のおかげで意識を取り戻したと公表していた。しかもそれは私の母だけではないらしい。どうやら複数の意識不明の患者が目覚めたらしいのだ。私のクラスの親たちや、近所の人たち、病院側や患者さんたちからたくさんの好評を得ることができれば、恩人である神蔵の減給も取り消されるかもしれないと兄は言っていた。そうなってほしいものだ。

「・・・準備はできてる?」
「もちろん!」
 私は隣で車椅子に座っている母に、力強くそう返した。母はそれを聞き、微笑んだ。
「今日は優勝できそうかしら?」
「・・・う〜ん・・・結果はどっちでもいいかな。今私は・・・早く音を奏でたいの。それでもっとたくさんの音を知りたいな」
「・・・そうね」
 母は目を閉じ、嬉しそうに肯いた。
「今日はクラスの皆が聴きにきてくれてる。良い音を聴いてもらえたらいいな」
「・・・瞬は・・・残念だったわね。もう仕事に行ってしまったみたいで・・・」
「・・・うん」
 兄は・・・私に記事のことだけ伝えると、すぐに家を出て行ってしまった。仕事で海外に向かうことになったらしい。一体どんな仕事か聞くのを忘れてしまっていたが、いささか急過ぎて見送りにも行けなかった。今度私の前に帰ってきてくれるのは何年先になるか分からないが、不思議と寂しさは感じなかった。母の「仕事に行く前に、ピアノを聴いてもらいたかったわね」という言葉に私は首を横に振った。

「・・・大丈夫・・・。瞬兄ちゃんがどこにいても・・・音は届くよ。音は・・・絶対に・・・」


 そう母に言うと、私の演奏の出番が回ってきた。
私は立ち上がり、笑顔で母に「行ってきます」と告げると、光溢れるホールへ歩いていった。




『Brillante』 End









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