『B』



 ・・・その日、私はいつものように早朝のレッスンに励んでいた。
母から練習するように申し付けられている名曲を・・・。
ベートーヴェンが手がけたピアノソナタ、第8番ハ長調『悲愴』。
第14番嬰ハ短調 『月光』を。
第15番ニ長調『田園』を。
第17番ニ長調『テンペスト』を。
第21番ハ長調『ヴァルトシュタイン』を。
第23番ヘ長調『情熱』を。
第26番変ホ長調『告別』を。
そして第29番変ロ長調の『ハンマーグラヴィーア』を弾いていた。


 母はいつもこの旋律を誕生させたベートーヴェンの言葉を口ずさんでいた。それはある侯爵に向けて放った言葉だが、それは母にとっては衝撃的な言葉だったらしい。それは、こんな言葉であった。

「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」

 それは彼の不羈奔放さを示すものではあるが、逆に惹きつけられる深い言葉でもある。
私は有名ピアニストの両親の間に生まれた。けれど、こうしてピアノを弾いているのはそれだけが理由ではないのかもしれない。確かに母から強制させられている面は否めないが、それでも私は拒否することができたはずなのだ。

「私は・・・何かに惹かれてる・・・?」

 私の指がソナタの終盤に差し掛かった瞬間、頭の中で不思議な旋律が走った。


「・・・どうかしたか?」
「・・・何でもないよ。ただ疲れただけ」
 私は腕を下ろし、後ろで聴いていた兄に顔を向けた。兄は帰ってきてから、毎日私の早朝レッスンにこうして付き合ってくれている。私が「ゆっくり寝てていいのに」と言うと、兄は決まって「寝てるより、お前のピアノを聴いてた方がずっと有意義だ」と笑う。そういう兄を見て気づいたが、この数年で兄は変わった。今まではこんな感情をはっきりいう人でもなかったし、今までの兄だったら睡眠を優先させていたはずだ。心境の変化でもあったのか、前以上に暖かみを感じてしまった。
「さて、そろそろお母さんも起きてる頃かな?」
 私は椅子から飛び降り、兄の手を掴んだ。「今日は私も一緒に朝ごはんを作ろうかな? 瞬兄ちゃんの分も作ってあげるね」
「料理、作れるようになったのか?」
「私ももう5年生だよ。それ位作れるもん! 瞬兄ちゃんよりも上手かもしれないよ」
「ハハ・・・そうかもしれないな」
 兄はそう笑って私と一緒に部屋を出ようとした。しかしその瞬間、兄の動きが止まった。私は不思議に思って兄の顔を見上げると、兄は両目を強く閉じ、片手で口元を覆っていた。体調でも悪いのかと思い私は声をかけるが、兄は首を横に振った。
「・・・不安・・・苦しみ・・・これは・・・」
「瞬兄ちゃん、どうしたの?」
 私が兄の体を揺すると、兄は我に返って私の手を引っ張った。
「母さんが・・・!」
「え・・・?」



 兄は母の寝室のドアを勢いよく開けた。
私も兄に連れられ、寝室を慌てて覗き込んだ。
そして・・・目を見開いた。


・・・母が倒れていたのだ。
寝相が悪くてベッドから落ちたわけでもない。母は横になったまま、目を見開いたまま倒れていたのだ。

「お母さん!」
 私が駆けつけて呼びかけるも、反応がなかった。「お母さん、どうしたの!?」
「・・・和奏、オレはすぐに救急車を呼ぶ。ここにいてくれ・・・」
 兄はそういい残すと、すぐさま部屋を飛び出していった。





 それからどれだけ待っただろうか。
実際にはそれほど経過してはいないのかもしれないが、私にはとても長く待たされたように感じた。
兄が呼んだ救急隊員が部屋に駆け込み、母の様子を見てすぐに担架に乗せた。そして私と兄はそのまま一緒に救急車に乗せられ、病院まで搬送された・・・。









「脳腫瘍」
 それが母が倒れてしまった原因であった。私には難しいことは分からないが、医師から話を聞いていた兄がそれだけを教えてくれた。医師は続けて兄に説明をする。
「現在お母さんは緊急の手術を行っています。手術前に検査を行ったところ・・・残念ですが・・・悪性のものだと判明しました」
「・・・悪性・・・! それでは・・・母は・・・」
「・・・どうやらお話を聞くと、お母さんはあなた方に症状を知らせていなかったようですね・・・。これだけ進行してしまっていると・・・手術を終えても後遺症も視野に入れておかなければならないかもしれません・・・」
「・・・後遺症・・・」
 兄は拳を強く握り、力なく俯いた。「・・・和奏・・・オレは少し話を聞いておく。だから・・・お前は今のうちに学校の方に休みの連絡をしておいてくれ・・・」
 兄は今にも潰れてしまいそうだ。しかし・・・それは私も同じことだった。私の耳には兄の言葉がかすかに届いただけで、私は何も反応できなかった。兄はそれに気づいたのか、医師に「・・・少し待ってください」と伝えると、私の手を引いて電話機の場所まで移動した。兄は学校に連絡すると、母が倒れたこと、しばらく欠席するという旨だけを伝え、受話器を置いた。
「瞬・・・兄ちゃん・・・」
「和奏、オレは話を聞いてくる。だからお前は手術室の前で母さんを待っててやってくれ」
 兄は震える私の肩をしっかりと支え、強い眼で私を見据えて言った。そう言った兄の眼は、先ほどまで私と同様に無力感に溢れていたそれでなく、強い光さえ感じられるほどの瞳だった。
「・・・待ってて・・・あげられるな?」
 兄のその言葉に、私は目を細め、力なく肯いた。









 ・・・とても重苦しい空間。
そこに私は立っていた。「手術中」と点灯している赤いランプが私の目の前を染める。あの向こう側に、母がいる。
「・・・この空気は・・・イヤ・・・イヤ・・・イヤだ!」
 私はそれに耐えられず、顔を覆って座り込んでしまった。母が死んでしまうのではと考えると、胸が押しつぶされ、涙が止まらない。苦手でしかなかった母でも、そんなのは関係ない。どんな人でも、私にとっては掛け替えのない母なんだ。
「・・・だから・・・お母さん・・・死んじゃイヤだよ・・・!」
 私がそう呟くと、丁度前の廊下から手術室へ入ろうとしている医師が2人出てきた。


 ・・・しかし・・・その医師たちは手術室の扉に手を伸ばしたきり、静止してしまっている。
それが10秒近くも変化がないことに気づき、私はその異変を知った。
私がゆっくりと医師に近付くが、やはり動きがない。身体も・・・顔も・・・目蓋さえもピクリとも動かずにいる。
・・・それどころか・・・その医師の1人がポケットからこぼした時計が私の目の前で浮いていたのだ。それは重力によって落下することなく、まるでそこにあるのが当たり前のようにその場に留まっている。私は恐る恐る時計に触れるが、それは全く動かすことができなかった。そしてその時計をよく見ると、秒針さえも止まっていたのだ。


「・・・どう・・・なってるの・・・?」

「君はダレ?」
「え?」
 不意に声をかけられ、私は驚いて後ろを振り返った。するとそこには、さっきまでいなかったはずの男の子が、人形を抱えて立っていた。歳は私よりも下・・・小学生の1,2年生といったところだろうか。前髪は長く、眼はそれに隠れ、とても大人しい男の子という印象を今でなければ抱いただろう。しかし今はこの不思議な現象の後にこの子を見てしまった。私じゃなくても、疑心をもつだろう。
 男の子は微笑み、ゆっくりと私に近付く。
「君は・・・ダレ?」
 男の子は再び同じ質問を私に問いかける。
「・・・私は・・・九条・・・和奏・・・。あなたは?」
「ボクは・・・エキ・・・。和奏・・・君はどうしてここに来たの?」
「ここ・・・ってお母さんが倒れちゃったから・・・病気を治すためにこの病院に・・・」
 私がそう言うと、エキと名乗った男の子は首を横に振る。
「ここはボクの世界・・・ボクだけの世界。普通の人には入ることのできない、和奏がいた場所とは別の世界。なのに君はここにいる」
「・・・え? どういう・・・こと?」
「音を・・・君も聴いてしまったんだね。人が聴いてはいけない旋律を・・・」
 私はエキが発する言葉全てが理解できなかった。しかし世界がどうの、音がどうのと私には関係ない。今はそんなことよりも大切なことがあるのだ。
「そんなことより!」
 私は大きな声を上げてエキの言葉を止めた。「私は今お母さんが心配でそれどころじゃないの。だからよくわかんないこと言ってこないでよ!」
 エキは私の言葉を聞き、そっと指を差してきた。
「・・・何?」
「大丈夫。和奏のお母さんは死なないよ。だけど、それから先は和奏次第だ」
「・・・どういうこと?」
「・・・後ろを・・・向いて」
「後ろ?」
 私はエキに言われたまま、エキの指の先を見るために後ろを振り返った。



 すると、目の前にあった時計が床に落ちて音をたてた。
「お・・・っと、しまった」
 目の前にいた医師が慌てて落とした時計を拾い、私に視線を向けた。「うわっ・・・ビックリした。あれ・・・君さっきここにいたっけ? 全然見えなかったよ」
 医師は驚いた顔を浮かべながら、そのまま手術室へと入っていった。
「・・・動いてる・・・」
 私はすぐに後ろを振り向くが、さっきまでそこにいたはずのエキの姿はなかった。
・・・夢なんかじゃない。幻なんかじゃない。人には説明できないけれど、確かに時が止まっていた。そして私の前にエキという男の子が現れた。あれは現実にあったことなんだ。私はエキが言った言葉を思い出した。
「・・・お母さんは死なない。けど・・・その先は私次第・・・?」
 それはどういう意味なんだろうか。「死なない」ということは手術が成功するというを差すのは分かるが、その後がよく分からない。私がそんなことを考えていると、廊下の向こう側から兄が駆けてきた。
「・・・和奏、母さんは?」
「・・・まだ手術中。でも・・・大丈夫だって・・・」
「・・・? 誰が? 医師がそう言ってたのか?」
「ううん。エキが・・・」
「えき? えきって何のことだ?」
「・・・ごめん、何でもない」
 私は首を振り、苦笑した。こんなこと兄に言っても信じてもらえるはずもない。私でも、そんな話をされたって信じないだろう。ならば無駄な話をして兄を不安がらせる必要はない。私は兄の手を握り、「何でもないから」と呟いた。





 その2時間後、母の手術は終了した。
あの時エキが言った通り、母は死ななかった。しかし医師が言っていた後遺症のせいで、それから数日が過ぎても母が目覚めることはなかった・・・。

ここから先は私次第・・・。

エキの言葉が・・・耳から離れなかった。


『B』 完
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