『A』




 兄と最後に顔を合わせたのはいつだっただろうか・・・。
もうそんなことを考えなければならないくらい、兄と会うのは久しぶり。
会ったらまず何を言おうか? まずはお帰りなさいかな・・・などと考えながら、扉を開ける。

しかしそこにいたのは自分が望んでいた人物でなく、考えれば当たり前のようだが仁王のように立っていたのは母だった。母は私が帰ってきたのを確認すると、ピアノのレッスン室へ向かうように目で合図をしてきた。そこの部屋を見渡すが、兄の姿はどこにもなかった。

「・・・瞬兄ちゃんは?」
「あの子なら帰ってきてすぐに家を出て行ったわ」
「・・・そう」

 母からの小言を聞かないようにするためだなと私は気づいていたが、それは口にしないことにした。しかし兄のカバンも家に置いてあることだし、しばらくは実家に滞在するつもりなのかもしれない。それを思うと、何だか嬉しくなった。

「コンクールまでもう時間がないわ。今は一秒でも時間が惜しいの。すぐに用意なさい」
「・・・はい」

 母は相変わらずだ。私は母に促されるようにしてランドセルを置き、レッスン室へ入った。いつものように・・・私の前には大きなピアノ。そして隣には私の一挙手一投足を観察する母。他にはなにもない。あるのはそれだけ・・・。私はゆっくりと両手を鍵盤の上に置き、そっと音を奏でた。


 コンクール用の演奏曲。私はそれに兄が好きだったこの『弦楽のためのアダージョ』を選んだ。しかし理由はそれだけでないのかもしれない。スパルタレッスンを受けてきて、ピアノが嫌いだと思っている私にも、この旋律は無意識に惹かれてしまうのだ。前半のすすり泣くような旋律・・・それは何を指しているのだろうか。

・・・悲しみ?
・・・優しさ?
それとも苦しみ?
それとも切なさ?

 いくら考えても答えが出ない。そもそも答えなんてものは作曲者以外誰にも分からない。音を聴いて、それをどう受け止めるかなんてのは人それぞれなんだ。だからこそ私はこの旋律を聴いて、苦しみを連想させた。今の現状がそれだ。ピアノを強制させられ、自分の意思の置き場はどこにもない・・・。


 しかしこの曲は中間部から激しく突き上げる慟哭さが現れる。
それは悲鳴にも似た激しさ・・・。それを感じたとき、私はいつも不思議な虚無感に襲われる。それはまるで・・・この音にとり憑かれるような現象さえ感じ取れる。

 私はそれに恐怖し、不意に鍵盤から指を離してしまった。

「どうしてそこで演奏を止めるの?」
「・・・」
 母は憤慨を露にしている。もしこれが本番だったら減点ものだ。母もそれを危惧しているのだろう。いつにも増して眉間にシワを寄せ、私の肩を強く掴んだ。
「・・・怖かったから・・・」
「怖い?」
「・・・音に・・・吸い込まれそうな気がして・・・」
「・・・そう」
 母は腰を曲げ、私と視線を合わせた。そこにいたのは・・・私が知っているいつもの母の顔ではなかった。不思議なことに、優しささえ窺えるような笑顔だった。
「和奏・・・やはりあなたは天性の才能があるわ。そうやって旋律を感じ取れる人間は、そうはいない。そしてそれを演奏できる人は更に少ない。今の演奏は途中で終わってしまったけど、いい出来だったわ」
 母はそう言うと、再び顔を上げてピアノの鍵盤に指を置いた。そしてゆっくりと優しい旋律を奏で始めた。私は母の顔を見上げながら、同時に母の指にも意識を向けた。
「・・・怖がることはないわ。ピアノと・・・旋律と一体となるの。そうすれば、あなたはもっと上へ行ける・・・」
「・・・旋律と・・・一体に・・・」
「あなたなら・・・私が行けなかった世界にも・・・」
 母は体を翻し、「今日はもう休んでもいいわ」と言い残すとレッスン室を出て行ってしまった。母がこれだけ短い練習時間で切り上げるのも珍しいが、優しい言葉をかけてくるのは更に珍しい。3年に1度あるかないかの珍事かもしれない。

 私は母が出て行ったこの部屋で、ピアノを見下ろしていた。そして再び旋律を奏でた。
「旋律と・・・一体に・・・」
 母が自分に言った言葉。これが一体どういう意味か分からない。あの虚無感の向こう側に、何かがあるのだろうか・・・?



「・・・ピアノ・・・音・・・旋律・・・私は・・・」








 夕食を終え、私は早々と自分の部屋に戻っていた。
今日は母の許しも得て、レッスンはなしとのことだ。帰宅後のあの演奏がそれ程母のお気に召すものだったのか、それとも私が何気なく言った一言がそれ程大切なものだったのかは分からないが、母は妙に満足していた。
 そして兄は夕食時になっても帰ってきていなかった。私の演奏で機嫌を良くした母が兄の分まで食事を作っていてくれていたが、やはり母と顔を合わせるのが気まずいのだろう。
「・・・早く会って色々話したいのにな・・・」
 私がベッドの上でそうぼやいていると、階段を誰かが上がってくる音がした。そしてその足跡は私の部屋の前で止まった。
(お母さん? それとも瞬兄ちゃん?)
 私がどちらだろうと探っていると、扉の前にいる人物はノックをしてきた。私が「どうぞ」と言うと、扉はゆっくりと開けられた。



 ・・・そこにいたのは、兄だった。
数年振りに見た兄の姿は、どこか大人びており、頼もしささえ感じる。ラフな髪型は相変わらずだが、背も少し伸びているような気がする。兄は私を見るとニコリと微笑み、目を細めた。
「・・・ただいま」
「うん、おかえりなさい」
 私はベッドから跳ね起き、すぐに兄の下へ駆け寄った。「ほら、こっちこっち」
 兄を部屋のソファーに座らせ、私もその隣に座る。
「瞬兄ちゃん、今どこに行ってたの?」
「・・・うん、少しね」
「・・・少し?」
「いや、ちょっと散歩してただけだよ。久しぶりだったからな」
「すごく懐かしかったんじゃないかな? あの人たちには会ってきた? ほら、あの昔すごく仲が良かった友達いたよね」
「・・・乙部? それとも安田か?」
「ううん、違うよ。えっと何ていう名前だったかな・・・」
 私は手を顎につけて考える素振りをとった。「あ、思い出した。ユーキさんだ」
「ユーキ? ・・・ああ、浅倉裕輝(あさくら ゆうき)か。そういえば昔はよく遊んだな」
「久しぶりに会いに行ってみたらどうかな?」
 私はそう言って昔の光景を思い浮かべた。ユーキさんはよく兄と一緒にいて、何をするにも一緒だった。母もその仲良しぶりに「兄弟みたいね」と笑っていたそうだ。性格も兄と少し似ていてとても優しい。兄が大学合格する少し前からユーキさんを見かけていないが、今は何をしているのだろうか・・・。
「まぁ、そのうちまた会えるさ。それよりも・・・和奏、少し・・・というか結構大きくなったな。見違えたよ」
「うん・・・成長期だからね。あと綾歌ちゃんは私より少し背が高いよ。加々美綾歌ちゃん、覚えてる?」
「・・・あ、ああ」
「・・・本当に?」
「・・・ごめん、誰だっけ?」
「もう!」
 兄のこんないい加減なところは変わっていない。綾歌本人が聞いたらガッカリするだろうが、久しぶりに懐かしい兄の一面に触れることができて、私は少しホッとしてしまった。
「・・・和奏」
「何?」
 名を呼ばれて兄の顔を見上げると、兄はいつにも増して真剣な表情でいた。兄はすっと立ち上がり、私の頭を優しく撫でている。
「・・・・・・少ししたら・・・オレはまた家を出る。だから母さんのこと・・・頼んだぞ」
「・・・また・・・行っちゃうの? 今度はいつ帰ってくるの?」
「・・・仕事で少し遠い所に行かないといけなくなる。いつ帰ってこれるかは分からないんだ。だから和奏に母さんのことを頼みたいんだ。母さんはああ見えて、とても弱い人だから」
 兄は何かを決意している、私の眼にはそう映った。兄が何を考えているのかは分からないが、母を、そして私を本当に心配してくれていることは確かだ。私は頭を撫でる兄の手をとり、そっと掴んだ。
「・・・瞬兄ちゃん」
「・・・オレじゃ・・・ピアノを捨ててしまったオレじゃ、母さんを支えることはできないんだよ」
「そんな・・・ピアノは捨てても家族なんだから大丈夫だよ・・・」
「家族・・・それだけじゃ本当に母さんを理解してあげることはできないと思う。母さんと同じようにピアノに触れ、同じように才能をもっていていつも傍にいる和奏じゃないとダメなんだ」
 兄はそう言って少し寂しそうな表情を浮かべている。私は兄の真意が見えず、首を傾げてしまった。ピアノの才能なら、私よりも兄の方がずっとある。なにしろ当時は兄のピアノを聴いてそれに憧れ、私はピアノを覚えたのだ。私はその時よりも大分上達したと自負しているが、今でも兄の旋律には到底及んでいない。兄は「100年に1人の才能」とまで言われていた天才ピアニストになれる天性の指先をもっていたのだ。その兄が母を支えることができないと言うのならば、私では尚更役不足ではないのだろうか。
そんな私の気持ちを見抜いたのか、兄は苦笑した。
「オレはそんな優れた人間じゃないよ。ただの・・・どこにでもいるようなただの凡人だ。でもお前は違うんだ。オレにはわかる」
「私・・・よくわかんない」
「今はわからなくてもいいさ。いずれわかる」
 兄は私から手を離し、部屋の扉に向かって歩みだした。「それじゃ、オレは母さんが作ってくれた夕飯をもらうことにするよ。和奏、オレのさっきの言葉を忘れないでほしい」
 兄はそれだけを言うと、微笑みながら部屋を出て行ってしまった。
「・・・瞬兄ちゃん・・・?」








「それじゃ、お兄さんが帰ってきたの?」
 翌日、登校中に出会った綾歌にその話をすると、彼女はとても嬉しそうに聞き返してきた。私が「そうだよ」と肯くと、彼女はとても可愛い満面の笑顔を浮かべている。この笑顔を男子が見たらイチコロだろうなと思いつつ、私は続けた。
「もう単位は足りてるし、卒論っていうのも提出してあるみたいだから、卒業式まではこっちにいるみたいだよ」
「そっか・・・そっか・・・ね、今日遊びに行ってもいいかな?」
「瞬兄ちゃんに会いに? う〜ん・・・どうしようかな・・・」
「ダメ・・・かな?」
「ダメじゃないけど・・・」
 久しぶり会った兄は綾歌のことを覚えていなかった。それを本人に伝えるのは気の毒だ。ここで2人を会わせても、兄のうろたえぶりが眼に浮かぶ。私は苦笑しながら眼を逸らした。
「あ、そ、そういえば瞬兄ちゃんは少し出かけるって言ってたよ!」
「え・・・そうなの?」
「うん、昔の友達に会いに行くみたいなこと言ってた気がする」
 嘘だ。本当はそんなこと言っていない。しかし今2人を会わせても何もいいことがないような気がして、私はとっさに口から出任せを言ってしまった。ガッカリしている綾歌には悪いが、今回だけは勘弁してもらう。
 ・・・だけどそんな時、意地悪な神様が私たちに余計なお節介を焼いてきた。
「和奏、オレもそこまで一緒に行くよ」
 いつの間にか私の背後にいた兄がそう声をかけてきたのだ。私と綾歌は慌てて振り返った。
「え・・・瞬兄ちゃん?」
「・・・どうした?」
「・・・何でもない・・・けど・・・少しタイミングが悪いかな・・・?」
「?」
 苦笑する私を見て、兄は首を傾げている。私は隣にいた綾歌の様子をそっと窺うと、彼女は案の定頬を染めて俯いてしまっている。兄もそれに気づいたのか、綾歌の顔を覘きこんだ。綾歌は兄に顔を近づけられ、顔を紅潮させている。
「あ・・・あの・・・あの・・・」
「顔赤いけど、大丈夫か? 熱でもあるんじゃないか?」
「だ・・・大丈夫・・・ですよ?」
「本当?」
「そ、それよりも瞬兄ちゃん!」
 私は慌てて2人の間に割って入った。「こんな朝からどこに出かけるの?」
「ん・・・いや、少し調べ物をね。丁度通学路だったみたいだから、そこまで一緒に行こうと思って」
「そ・・・そうなんだ」
 私は苦笑いをして話題を変えた。「そうだ、もうすぐ市の音楽発表会があるんだ。瞬兄ちゃん、もし暇だったら聴きにきてよ。私も綾歌ちゃんも頑張るからさ」
「綾歌・・・あ・・・ああ、そうかわかった」
 私は兄の眼をよく見て、「この人が綾歌ちゃんだよ」という思いを込めて伝えた。兄もそれを察してくれたのか、綾歌を見て苦笑しながらも肯いた。当の綾歌は未だに俯いてしまっている。
「予定がなければ、聴きに行くよ」
「・・・予定があったら来れない・・・よね?」
「・・・わかった、訂正するよ。絶対に聴きに行く」
「うん、やった!」
 私はそれほど子どもではないつもりだが、兄が聴きに来てくれると思うとやはり嬉しい。綾歌も私と同じ思いのようで、顔を上げて嬉しさを表現していた。
 私たちは学校の校門前で兄と別れ、学び舎へと入っていった。
・・・しかし私はまだこの時・・・気付いていなかった。
・・・兄の想いを・・・。
そして・・・母の病気を・・・。

・・・母が体調不良で倒れたのは、それから一週間後のことだった・・・。


『A』 完
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