『Brillant』




 頭の中で音楽が鳴り響く。
鍵盤の上を私の指が滑らかに、そして時に激しく触れる。それは私の気持ちを表現するかのように音を奏でる。Grave(重々しく)に、Largo(幅広くゆるやかに)に・・・。
 先人たちは様々な曲を生み出していった。J.S.バッハ、スカルラッティ、ハイドン、モーツァルトにベートーベン、シューベルトにショパン・・・名を挙げていけばキリがない。彼らは何を思って音楽に触れ、そして没頭していったのだろうか。中には人生の全てを音楽に捧げた音楽家もいる。音楽というものはそうさせるだけの魅力を秘めているのかもしれない。

「和奏!」
 私は母にそう名を呼ばれ、驚いて鍵盤の上から指を上げて動きを止めた。母は明らかに不穏な空気を纏い、ピアノの前にいる私に詰め寄った。
「何回言わせるの! そこはタ・・・タ・・・タでしょう。もっとmorendo(絶え入りそうに)に弾きなさい」
「・・・はい」
 私は叱る母から眼を逸らし、唇を噛んで再びピアノに向き合う。
 毎日、毎日、母からピアノの練習を強制させられている。学校が終わって帰宅すると、夕食と入浴の時間以外は全てピアノの練習時間に充てられる。母からの指摘は凄まじく、それをこなす事ができなければ眠ることも許されない。私はこんな環境の中にいて、先人たちとは違い音楽に対して嫌悪感すら覚える。

 ・・・そして今日も長時間の練習が終わり、私は疲れた体を引きずって自分の部屋に戻った。
『九条 和奏(くじょう わかな)』・・・それが私の名前。なぜ私がこうしてピアノに縛られてしまっているかというと、両親は2人ともピアニストだったからだ。父は私が物心つく前に他界してしまったが、2人とも世界的に有名なピアニストであるということは、家に残されている多くのトロフィーや賞状を見ればすぐに分かる。元々そういう世界にいた為か、娘である私を自分と同じように世界的なピアニストにしようとしているらしい。有名ピアニストのサラブレットとという理由か、私には天性の才能があるということ。私自身納得していないが、母はそう言っていた。園児の頃からピアノに触れ、小学校に上がる頃には最早大人顔負けの腕前となった。コンクールで幾つも受賞したこともある。それでも、音楽というものに惹かれはしていなかった・・・。


 電気を消してベッドに横になり、私は目蓋を閉じた。何時間も何時間もピアノを弾いていると、こうして眼を閉じていても音楽が耳から離れない。そういった余韻を覚えていると、指まで無意識に動いているから怖い。


「・・・私は・・・何のためにピアノを弾いてるんだろう・・・」


 私はそう呟き、重い疲労と睡魔に潰されていった。






 早朝。まだ日が昇らぬ時間の4時に眼が覚め、私は今日もいつものようにレッスン室へ向かった。母の言いつけで、朝は朝食までの3時間ピアノの練習をすることになっている。習慣とは何て恐ろしいんだろう。始めはイヤイヤやらされていた早朝練習も、こうして勝手に体が目覚めてしまうのだ。

 私はピアノの前に座り、天井を見上げた。
「・・・何を弾こうかな・・・」
 数分試行錯誤して、結局j.s.バッハの『G線上のアリア』を弾くことにした。この曲は緩やかでとても心が落ち着く曲なのだ。G線上のアリア・・・それはバッハの管弦楽組曲第3番の中でもとりわけ名高い「アリア」楽章につけられた愛称だ。しかしこのタイトルは本来作者であるバッハが名付けた題名でない。19世紀後半になってアウグスト・ウィルヘルミがニ長調からハ長調に移調させるとこの曲はヴァイオリンのG線のみで演奏可能なことに気づき、そこから由来している。これも母から教えられた受け売りに過ぎないが・・・。

 ピアノを弾きながら、私は兄のことを考えていた。私には兄がいた。数年前に大学合格と同時に一人暮らしを始めて家を出て行ってしまったが、兄だけが私のこの劣悪な環境の中で唯一の癒しだったと今では思える。少し前までは電話で話すこともあったが、大学が忙しいのか、今では手紙のやり取り程度になってしまっている。
「瞬兄ちゃん、今頃どうしてるかな・・・」
 私はそう呟いて、ピアノの練習を終えた。色んな曲を弾いているうちに、いつの間にか時間が経っていたようだ。気がつけば太陽が昇り、スズメたちが朝の訪れを告げている。私は演奏を止め、朝食をとるために台所に向かった。そこには既に母が立っており、テーブルには朝食が並べられていた。私が椅子に座ると、母は無表情で視線を向けてきた。
「・・・練習はしたの?」
「・・・うん」
「そう、それじゃいいわ。今日も早く帰ってきなさい。帰ったらすぐにレッスンよ」
「・・・うん」
 私は溜息を押し殺し、目の前に置かれた目玉焼きを一口サイズに切って口の中に放り込んだ。娘にも自分が歩んだ道を進んでほしいという気持ちは分からなくもないが、こうも押し付けられてしまうと息苦しさすら覚える。私は母と向かい合う状況に耐えられず、急いで朝食を片した。
「・・・行ってきます」
 そう言い残し、私はすぐに家を飛び出した。家の中よりも、学校に行っていた方が落ち着くというのは妙な感じだ。家を飛び出すことで、私は満足のいく開放感を胸にしていることに気づき、一人で苦笑してしまった。

 団地を少し歩き、時折スキップを混ぜる。それはまるでミュージックのように、リズム良く・・・。
「・・・これは・・・Jiocoso(楽しげに)ってところかな?」
 私は自分のリズムに心を弾ませ、正面に見えてきた人物まで同じリズムで駆け寄った。「お早う、綾歌ちゃん!」
 私はそこにいた女の子に抱きつき、いつものように挨拶をした。しかし当の綾歌は恥ずかしそうに眼を伏せてしまっている。加々美 綾歌(かがみ あやか)は私と同じ小学5年生。家が近所ということもあり、物心ついた頃から一緒で大の仲良しなのだ。まぁ・・・大人し過ぎるのがタマに傷だが・・・それも今の世の中では慎ましいと受け取ってもらえる長所なのかもしれない。
「お早う・・・和奏ちゃん」
「うん。ね、また昨夜もレッスンだったんだよ。私もいい加減疲れちゃうよ」
「和奏ちゃんとこのお母さんは厳しい人だもんね・・・」
「それに比べて綾歌ちゃんのところは優しいお母さんだから羨ましいよ」
 私はそんな会話を続け、学校に向かいながら歩き出した。しばらく他愛のない会話をしていたが、綾歌が何かに気づいたように問いかけてきた。
「そういえば、お兄さんはそろそろ大学卒業じゃないかな?」
「瞬兄ちゃん? ・・・留年とかしてなければ今年卒業のはずだけど・・・ちょっと心配だなぁ。面倒臭がりやなところがあるからね」
「・・・でも・・・頼りになる人だよ」
「・・・そうだね」
 私の兄の口癖は「面倒臭い」だった。詳しくは聞いていないが、父が存命していた頃は父母からピアノの英才教育を受けさせられていたらしい。兄も私と同じサラブレットであるからして、世間からも結構注目されていたそうだ。しかし兄は中学の後半からピアノに触れなくなり、どういう訳か空手に熱中するようになってしまった。ピアニストから格闘家へ転職とは、なかなか大胆な選択だ。しかもその時期から転向しておいて、そちら方面でも実力を発揮するから母も驚いたそうだ。その頃には父は亡くなっており、母が兄をピアニストになるように説得しても、兄は首を横に振るだけだった。「オレには向いてない」と言っていたが、本音はやはり「面倒臭い」ということだろう。
 そんなことがあったから、母はただ一人残された私に期待を注ぎ込んでいるのだ。今の私の状況は兄が作り出してしまったといっても過言じゃないだろうが、どうしても兄を責める気にはならない。私が兄のことを慕っているということもあるが、自分の人生は自分で決めるものだと私も思っている。親と同じレールの上を歩くという二世代的なものは、既に前時代の古い習慣だ。私もいずれは、ピアノ以上のものを見つけてそちらに転向する可能性もあるのだ。
「お兄さんはもうこっちには戻ってこないのかな・・・?」
「う〜ん・・・どうだろうね。帰ってきてもお母さんにブツブツ言われるだけだろうし・・・瞬兄ちゃんの性格を考えると帰ってこないだろうね・・・」
「・・・そっか・・・」
 綾歌は見るからに残念そうな表情を浮かべ、溜息をついている。それを見て、私はニンマリと微笑んだ。綾歌は小さい頃、私の家に遊びに来ては兄に面倒をみてもらっていたのだ。そういうこともあってか、綾歌は兄のことを本当に慕っている。もしかすると、実の兄のように思っているのかもしれない。・・・それ以上の気持ちがあるとすると問題だが・・・。
「あげないよ?」
「え・・・っ? あ、私は別に・・・その・・・そんなつもりじゃ・・・」
「顔が真っ赤だよ」
「あ・・・」
 綾歌は慌てて両手で顔を覆う。どうやらこれは危惧していた事態になってしまっているようだ。綾歌がこうも兄のことを想っていたということは・・・分かってはいたが、少々複雑な気分だ。

 そんなことを話しているうちに、学校に到着していた。下駄箱で靴を履き替え、階段を登って自分たちのクラスに向かう。まだ朝の会まで時間があるため、クラスメイトたちは自由に時間を過ごしていた。クラスを見渡すと、本を読んでいる子、真面目に予習をしている子、ゲームの話しに華が咲いてしまっている子もいる。私は残念ながらそのどれにも類しない人間だ。考えてみると、私の特技はピアノしかないことに気付く。それに比べ、綾歌のどれだけ優れたことか。綾歌は勉強もできるし面倒見もいい。運動は少し苦手だが、それ以上の特技をもっている。
「もうじき発表会だね。綾歌ちゃんも楽しみじゃない? 綾歌ちゃんは歌がすごく上手だからね」
「それを言ったら・・・和奏ちゃんの演奏も上手だよ」
「・・・まぁ、スパルタなレッスンを受けてるからね」
 私はそう言って苦笑した。私たちの学校では、2週間後に音楽発表会が予定されている。同市の小学校を対象としたイベントで、子どもの勇姿を一目見ようと親も大勢やってくる。近所の住民たちも集まれば、小さいながらもテレビ局だってくるのだ。音楽発表会といっても要は合唱だが、曲は規定されていない。私の学校では「星の大地に」「あなたにありがとう」「アメージンググレイス」を歌うことになっている。最初の2曲は確かに良い歌だが子どもが歌うのに適している。しかしそれに比べ、最後の「アメージンググレイス」は洋楽だ。クリスチャンの学校でないのにこの選曲はどうかとも思うが、皆楽しそうに歌っているから問題ないか・・・。最初は英語に悪戦苦闘していたが、3ヶ月の練習を経て、今では立派に歌えるようになっている。
 そしてその翌日、私にはピアノのコンクールが待ち受けている。一応弾く曲は決まっているが、それが近づくにつれて母の意気込みが増えそうな予感がして、気が気じゃない。只でさえスパルタだというのに、これ以上きつくなってしまったらとてもじゃないが耐えられない。いっその事、風邪でもひいて欠席しようかと思ったが、母の性格からして、そうした病気になってしまっても出演させられそうだ。

 私と綾歌は自分たちの席に座り、そして丁度担任の先生が教室にやってきた。担任である神蔵は寝癖のついた髪形のまま、生徒たちに各自席につくように促した。
「皆、お早う!」
 神蔵がそう笑顔で挨拶すると、生徒たちも笑顔で返した。「音楽発表会はもう目前に迫っているけど、大丈夫かな? 特に・・・九条さん」
「え・・・私?」
 神蔵に急に名を呼ばれ、私は不意打ちをくらってキョトンとした表情を浮かべてしまった。
「九条さんには全曲ピアノを任せてしまっているからね。翌日にはコンクールもあるんだろ? あまり無理させては先生が怒られてしまうからね」
「・・・私のお母さんにですか? それは怖そうですね」
「うん・・・。九条さんのお母さんは怖いから、先生は苦手なんだ」
 神蔵はそう肩を落とす。しかしすぐに顔を上げて「ここだけの話だぞ」と付け加えて生徒たちを笑わせた。
「私なら大丈夫」
「本当に?」
「はい」
「・・・そっか。なら本番も頼むよ。コンクールには皆で応援に行ってあげるからね」
「・・・そんな・・・別にいいですよ」
「ハハハ・・・応援とは少し違うかもしれないな。ただボクが九条さんのピアノを聴きたいだけなんだ」
 神蔵はそう言って子どものように純粋な笑顔を浮かべている。神蔵の言葉を聞き、友人たちも順に「私も聴きたい」「オレも」「ボクも」と賛同し始めた。信じられないことに、クラス全員が賛同している。それに気を良くしたのか、神蔵は嬉しそうに「決まりだね」と肯いていた。
「・・・もう好きにしてください」
 私は諦め、苦笑してそう呟いた。


 授業を終え、神蔵は生徒たちを体育館に集めた。今日もいつものように合唱練習をするつもりらしい。私は皆が並んでいる横に置かれているピアノの前に座った。
「それじゃまずは星の大地にを歌おう。九条さん、頼むね」
「はい」
 私は肯き、指揮者の合図で音を奏で始めた。指揮者は自分と同じクラスメイトの男の子で「格好よさそう」と立候補していたが、残念なことにリズムが合っていない。このリズム通りに弾いてしまうと曲が崩れてしまいそうだったので、男の子には悪いが自分のリズムで勝手に弾かせてもらった。それは次の「あなたにありがとう」でも同じで、時折指揮者を見るが相変わらずリズムが狂っていた。
「それじゃ最後にアメージンググレイスだ。独奏者に加々美さんだね」
 神蔵は綾歌を呼び、生徒たちの中央に立たせた。神蔵が綾歌を独奏者に選んだ理由、それが綾歌の一番の特技にある。私が軽く伴奏を弾くと、皆は綾歌を中心に歌いだした。
 ・・・こうして聞いていると、やはり綾歌の声が際立っている。他の子も頑張ってはいるが、綾歌のどこまでも透き通るような声には敵わない。普段大きな声を出すことがないのに、彼女はこういう場では信じられないような音量を出すことができるのだ。しかもただ大きくて煩いのではない。心地よく耳に残る透明感すら感じさせるのだ。その歌声に酔っているのか、神蔵は目を閉じたまま聴き入っている。油断すると私までそちらに集中してしまい、指先が止まりそうになる。それだけ彼女の歌声は素晴らしいのだ。



 合唱練習を終え、私と綾歌は一緒に下校していた。
空が茜色に染まり、夕焼けが空や雲を幻想的に映し出している。夕焼けの光を浴びて頬を染めている綾歌に、私は苦笑した。
「・・・やっぱり綾歌ちゃんはすごいね」
「え? 何の話?」
「歌だよ。先生もすごく褒めてた」
「その・・・でも私も自分にあんな声が出せるなんて知らなかったんだよ。全部先生に言われた通りにしてるだけで・・・」
「でも先生から教えられたのは歌の練習方法だけでしょ? すごいのはやっぱり綾歌ちゃんだよ」
 私が褒めると、綾歌は恥ずかしそうに顔を俯かせた。こんな気弱そうで大人しい子が、まさかこんな才能をもっているなんて誰も気づかないだろう。その才能を見出した神蔵にも驚かされるが、やはり本当にすごいのは綾歌自身だと思う。
「でも和奏ちゃんもすごいよ。最後にコンクール用の曲を練習してたでしょ? 皆感動してたよ。あれは何て曲なの?」
「あれは・・・瞬兄ちゃんが昔よく弾いてた曲なんだ。悲しいけど・・・でも心を包んでくれるような優しさも感じる・・・。私ピアノはあまり好きじゃないけど、こういう音は好きなんだ。『弦楽のためのアダージョ』っていうんだけどね」
「そういえば・・・私もお兄さんがそれを弾いてるところを見たことあるかも・・・」
 私は綾歌にそう言われ、その光景を思い出した。私がもっと小さかった頃、兄はピアノの前で優しい・・・でもどこか儚いような笑みを浮かべていたような気がする。兄は何を思ってこの曲を弾いていたんだろうか・・・。
 綾歌と別れ、ついに家に到着してしまった。ここからまた母のスパルタレッスンが始まるかと思うと、自然に足取りが重くなる。いっそこのまま家出したい気分だ。しかしそんな行動をとれるはずもなく、溜息をついて扉を開けた。
「・・・あれ?」
 私はそこで初めて家の敷地内に見慣れない車が止まっていることに気がついた。不思議に思って家の中に入ると、玄関口に荷物が置かれていた。それには見覚えがある。このカバンは私の兄が愛用しているものだ。
「瞬兄ちゃんが帰ってきた?」
 私はそれに気づき、高揚感を抑えきれずに居間の扉を勢いよく開けた。


『@』 完
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