『自分が捨てたもの・・・@』



 美術の授業で初めて風景画を描いたら、先生に褒められた。
友人たちにも「お前すごいじゃん」「意外な才能だね」等、それぞれに自分を認めてくれた。それがすっごい嬉しかった。こんな何の取り柄もない自分でも、人に認められる何かがあったことが嬉しかったのだ。それから、自分は絵を描き続けた。人に褒めてもらうのが嬉しくて、そんな嬉しさを感じている自分になりたくて、ひたすら絵を描き続けてきた。

 ・・・だけど、そうして描き続けていると欲が出てきてしまう。褒められる充実感を得ながらに、更に頂点を手中にしたくなるのだ。頂点を手にすることができれば、自分はもっと認めてもらえる。自分はもっとすごい人間になれる。そう考えていた。でも・・・そんな思いはある日突然壊れてしまった。たった1枚のキャンバスに描かれたモノによって、不可能だと感じ取ってしまったのだ。そこに描かれていたものは、決して自分には作り出すことのできない感動すら覚える作品だった。それを眼にした瞬間、悟ったのだ。

「・・・あぁ・・・この人には勝てない・・・」

 幼いころから抱いてきた胸を抉(えぐ)るような敗北感。しかし、この時程それを強く感じたことはなかった。自分が認めてもらえる唯一の世界で、こんな偉大な作品を排出する人間がいては、これ以上描き続けていても惨めさを露にするだけだ。そしてボクはそう思い、絵を描くのをやめた・・・。








 その日も、ただ何もすることなくテレビに眼を向けていた。テレビでは何かニュースが流れているようだったが、頭には入っていない。ただ、眼をそちらに傾けているだけで、意識して聞いている訳ではないのだ。そうして無駄な休日を消化しようとしていると、不意に部屋の扉がノックされた。
「開けるわよ?」
「・・・ああ」
 自分がそう答えると、扉は勢いよく開け放たれた。そこには自分の姉の久美が立っていた。その姉の姿を一瞥すると、自分の眼は再びテレビの画面に向けられた。
「・・・何か用?」
「勇次、あんた折角の休日を無駄に過ごしてないで、たまには出かけたらどうかな?」
「・・・ボクはいいよ。」
 ボクはそう答えると、姉はボクに近づき、隣に座った。
「あんた変わったよね。何かさ、つまんない人間になったんじゃない?」
「・・・」
「私はさ、これでも一応心配してるんだよ。たった一人の弟だしね」
「・・・気持ち悪い」
「はぁ? あんた、折角私が良いこと言おうとしてるのに何が気持ち悪いよ」
「だって、姉さんってそんなボクを心配するような人じゃないだろ。何を考えてるんだよ」
 この人はいつもボクを玩具にして遊んでくる。今まで自分が抱いてきた敗北感の8割は、この無邪気な悪魔の姉によって刻み込まれたと言っても過言じゃない。そんな傍若無人な姉が、「弟が心配」なんていかにもいい人そうな言葉を口走るはずがない。こうして優しい姉を装ってくる時には、必ずといっていいほど裏があるのだ。
「失礼ね。私だって優しさくらい持ち合わせてるわよ。全く、人の好意を無下にしようとするなんて・・・。そんなんじゃ女の子にモテないよ?」
「・・・それじゃ姉さんのその見栄見栄の行為に、裏はないって言うんだね?」
「あるに決まってるでしょ」
 姉は真顔で答えた。ここまでストレートに白状するのも珍しいが、未だ久美が隠している裏が全く読めない自分はその姿を凝視した。そこでようやく、彼女が外行きの服に着替えていることに気づいた。
「・・・どっか行くの?」
「ええ、大学の学園祭にね。そこは私の通っている大学の姉妹校なんだけど、そこに有名な人がいるのよ。ほら、あんたも少し前に絵を描いてたから知ってるでしょ? 『佐伯和也』様」
「・・・様?」
「だって、私ファンなのよ。一度大学同士の交流会で会ったんだけどね、その時に見せてもらった絵に感動したわけよ。『この空の下で』っていうタイトルだったんだけど、すごく切ない気持ちになったんだ」
 姉にそんな女の子っぽい「切ない気持ち」が本当にあるのか疑わしかったが、スルーすることにした。この『佐伯』という人物はよく知っている。何しろ、自分に絵をやめる程の敗北感を植え付けた人なのだ。自分と同じ高校2年の頃には、すでに美術界に頭角を現し評判になっていた。受賞した作品の数だって、数え切れないほどある。姉が言っていた『この空の下で』という作品は見た覚えがないが、とにかく自分とは違って才能が半端じゃない。
「そこであんたの出番なのよ」
「・・・は?」
「私はあまり絵を描かないけど、勇次は少し前まで描いてたでしょ。あんたなら、佐伯様と話すときの共通の話題とかあるでしょ? あんたがいれば佐伯様に近づきやすいのよ」
「・・・ようするに、ボクを利用するってこと?」
「そうそう。たった一人の姉でしょ? 助けなさいよ」
 滅茶苦茶な論理だ。さっきまで「たった一人の弟だから」と言っていた口がよく言う。しかし姉にそう言われても自分は佐伯に会うつもりはない。彼に会っても、自分が殊更惨めになるだけだ。
「・・・とにかく、ボクは行くつもりはない」
 ボクの思いが伝わったのか、姉はため息をついた。
「・・・はぁ、仕方ないわね」
 姉はそう呟くと、立ち上がって勢いよくボクの腕を引っ張った。「実力行使に頼るしかないようね」
 ボクは慌てて身構えるが、当初の態勢が悪かったのも災いして、堪えることもできずに引き摺られた。そもそも、姉の久美は女のくせにボクよりもずっと強い。身体は華奢に見えるくせに、幼い頃から習い続けている拳法道場のおかげで自分はこの姉に勝った覚えがない。それも道場の男衆よりも強い。大会で3連覇を成し遂げた彼女の前では、道場の師範も赤子に近いのではないだろうか。そんな女拳士に自分が適うはずもなく、成す術なく車に押し込まれてしまった。
「・・・姉さん、判ってたことだけど、姉さんって強引過ぎるよ」
「何言ってるのよ。戦いも恋愛も、強引に攻めてこそ勝機が見えるものなのよ」
「姉さんの自論はどうでもいいよ」
 ボクは呆れてため息をついた。佐伯のことはあまり好きではないが、この姉に見定められてしまったことは同情する。もしこの姉が付きまとうようになれば、3日と経たずに廃人の出来上がりだ。弟の自分が言うのも何だが、見た目美人なのが唯一の救いだろう。この外見がなければ誰も見向きもしないのではないだろうか。



 大学のキャンパスに到着すると、姉は指定された駐車場に車を停めた。なかなか大きな大学らしく、たくさんの車を駐車するスペースが用意されていた。姉は車を出て、キャンパスを眺めた。
「あぁ・・・ここに佐伯様がいるのね」
「・・・姉さん、その『様』っていうのやめなよ」
 正直、身内として恥ずかしい。そんな言葉を連呼された日には、他人のフリをしなくてはならない。
「さ、それじゃ早速佐伯様がいる美術展に行きましょうか」
「・・・聞いてないし」
 自分の願いを全く聞こうとしない姉は、弟のことなどお構いなしに歩き出した。ボクはそんな姉の後姿にため息をつき、後を追った。キャンパスに入ると、最初にたくさんの出店が眼に入ってきた。たこ焼き屋、ホットケーキ屋、から揚げに古着屋・・・係員から受け取った資料にはタロット占いも記されてある。大学祭というのはお祭りという名目を掲げているだけで、実際は学生がフリーダムに活動するための祭壇に過ぎない。男装女装コンテストなど、需要が全く感じられない催しすらある。
 姉はそれらの出店などを一瞥しただけで、やはり一番に出向く場所は憧れの人がいる美術展らしい。一度交流会があったと言っていただけのことはあって、地図すら見ずにスタスタと先を歩いていく。目的地に近づくにつれて喜びが増してくるのか、段々と早足になっている。いい気なものだ。こちらは逆に足取りが重くなっているというのに・・・。

 校舎内に入り、そこにある催しも無視し、階段を登っていく。3階まで登ると、今度は廊下を直進しだした。そこまで行くと、目の前に『美術展』の張り紙を確認することができた。この学校の美術部は余程知名度が高いのか、多くの人が出入りしていた。中には自分が知っているようなプロの画家なども見かけた。この人たちは全て、佐伯の絵を見に来ているのだろう。彼らはプロでありながら腕を磨くべく、こうして学生である佐伯の絵を見に来ている。そんな彼らの姿を見ていると、佐伯の絵を見て諦めた自分がちっぽけに思える。

「佐伯和也さんはどちらにいらっしゃいますか?」

 姉が受付をしている女性に声をかけた。姉でもそれくらいの常識はあるのか、『様』呼びをしないでくれた。もしそんな呼び方をしていたら、間違いなく他人のフリをしていただろう。

「佐伯部長ですか・・・」
 女性は困った顔を浮かべ、同じく受付席に座っていた友人と顔を見合わせた。
「本来ならば部長はこちらで受付係をしているはずだったんですが・・・その、何と言っていいか・・・」
「佐伯さんに何かあったんですか?」
 姉は心配そうに尋ねた。しかし受付嬢は苦笑して首を横に振った。
「いえ、心配はいりませんよ。ただ逃げただけですから」
「・・・逃げた?」
「ええ。部長はそういう面倒くさいのが苦手みたいで・・・。さっきからOBの方やプロの画家の方に何度も聞かれているんですが、部長はこちらには顔を出さないと思いますよ。今頃・・・どこかで寝ているはずです」
 受付嬢の物言いを聞くと、佐伯はいつもそんな感じのようだ。それだけ責任感のない部長も珍しい。しかしボクは彼と直接相対せず、内心ホッとしていた。姉は逆に残念がっていたが・・・。
 取りあえず、納得いかない姉は置いておいて、暇つぶしをさせてもらうために美術展を見渡した。美術部の学生の作品といっても、そこらの学校の美術部よりもレベルは上だ。どれもこれも高度な技術を駆使して描かれている。しかし奥に進むにつれて、胸が痛み出した。後半から先のスペースは、佐伯の絵がたくさん展示されていたのだ。そのどれも、自分の画力では到底届くこのできない高みに見える。自分は、この絵を見たからこそ、絵を描くことをやめたのだ。
「やっぱり、良い絵よね」
 先ほどまで落ち込んでいた姉が、いつの間にか隣に立っていた。拳法で培ったのかわからないが、気配もなく傍に立つのは正直やめてほしい。ボクは驚いて心臓が止まりそうになった。
「・・・そんなの姉さんにわかんのかよ」
「失礼ね、それくらい判るわよ。だって佐伯様のだもん」
「評価の基準はそこなのかよ」
「当たり前でしょ。佐伯様が描いたんだから、良い絵に決まってるじゃない」
 姉はどうしてもそこは譲らないらしい。しかし本当に良い絵なだけに、何も言い返せなかった。こうして佐伯の絵を間近で見ると、その才能を痛いほど感じさせられる。その絵を見ぬように焦点を外している自分に気づき、それらの絵に背を向けた。これ以上見ていると、何かに押し潰されそうな感覚に陥ったのだ。だが・・・その原因は分かっている。
「・・・姉さん、ボクはもう行くよ」
「行くって・・・もう帰るつもり? まだ佐伯様に会ってないのに」
「ボクは佐伯に用はないよ。それに絵にも興味ないし、その辺りを適当にぶらついてるよ」
 これ以上ここにいると、心が耐えれそうにない。一刻も早くここから離れたい。自分は姉の返答を待たずして歩き出した。後ろから姉の心配そうな視線を感じながらも、振り返ることもできずに美術展を抜け出した。
「・・・ボクは・・・こんな弱かったんだな」
 佐伯の絵を見た瞬間、ボクは負けを認めてしまった。自分以上の絵の才能に、嫉妬した。自分はこの人を決して超えることができないと、悟ってしまったのだ。心がその時から前に進もうとしない。その場で立ち止まってしまっていることを、ボクは知っている。だがそれに気づいていながらも、一向に改善しようとしない。もう・・・諦めているのかもしれない。
 そんなことを考えながら歩いていると、自分が全く知らない場所へ迷い込んでしまっていることに気がついた。この学校へは初めて来たので、行きに来た順路を戻ってきたつもりであったのだが、考え事をしていて別の道に入り込んでしまったようだ。周りを見渡しても、人の姿もない。一般客どころか、大学の学生の姿もないのだ。ここは間違いなく現在は使われていない区域みたいだ。
「・・・全く、良いことないな・・・」
 自分がそう呟いていると、奥の講堂から『ガタリ』という物音が聞こえた。それは耳を澄ませなければ聞き逃してしまうほどの小さな物音だったが、確かに自分はそれが聞こえた。薄暗い廊下でいかにもな雰囲気だが、まさかこんな真昼間からアレが出るはずもないだろう。ひょっとしたら学生が何かをやっているのかもしれない。もし学生なら、道を教えてもらうことにしよう。
「・・・失礼します」
 ボクがそう言って部屋の扉を開けると、そこには一目で仕事をサボっていると分かる人物がいた。講堂に置かれている椅子を並べて、その上に横になっているのだ。もしかすると体調が優れないのかもしれないが、あの幸せそうに眠っている顔を見るととてもそうは思えない。大学祭中は学生ならば仕事に追われているはずだ。確かに休憩ももらえるだろうが、目の前で寝ている男には明らかに仕事疲れでの睡眠というイメージは浮かばない。
「・・・んぁ?」
「あ・・・起こしちゃったか・・・」
 自分が扉を開ける音が彼の睡眠を妨げてしまったのか、眠っていた男はむくりと起き上がった。髪は寝癖がついてしまっており、ラフそうな髪型がより一層爆発してラフになってしまっている。床に向けている眼はまだ眠りから覚めていないらしく、蕩けている。そしてそんな状態が1分程流れると、彼はようやく顔を上げた。
「・・・あれ? 君は誰?」
「あ・・・起こしてしまってごめんなさい。一般客なんだけど、ちょっと迷ってしまって・・・」
「・・・ああ、良かった」
「は?」
 ボクは耳を疑った。困ったことになってしまったというのに、「良かった」という単語は予想もしていなかった。「その・・・良かったって・・・?」
「ああ、君が一般客で良かったよ。ひょっとして、ボクを連れ戻しにきたのかと思ってね。それじゃ、もう少し寝ていられそうだ。あ、外に出るんなら、その通りに見える403の講堂を右に抜ければいいよ。それじゃ、おやすみ」
 男はそれだけ説明すると、再び椅子の上に崩れ落ちた。かなり変わった人物のようだが、外に出られるのならそれでいい。男のかなり変わった性質にも気になったが、あまり関わり合いなりたくない。その場を立ち去ろうと振り返った瞬間、思わず息を呑んでしまった。
「・・・姉さん?」
 そこには、仁王のように立ちふさがっている我が姉、久美がいた。表情を窺うと、どうやら不機嫌のようだ。お目当ての佐伯に会えなかったのだろうと勝手に推測した。
「・・・勇次、勝手に行かないでよ!」
「・・・悪かったよ」
「もう、今日は何しに来たんだろう・・・。結局佐伯様にも会えなくて、散々ね」
 姉のその言葉を聞き、ボクは何か鮮明な光景が見えそうになった。姉が「佐伯」と言った瞬間、自分の背後で寝ている男に意識を向けた。美術展の受付で、「部長は逃げてしまった」と言っていた。そして背後の男は「連れ戻しに来たかと思った」と言っていた。これは偶然の一致なのだろうか。いや、そんな都合よく佐伯と同じ行動をする人物が同時刻にいるとは思えない。
「・・・ひょっとして・・・」
 ボクは背後を振り向き、未だに寝ている男に視線を向けた。「あの人が・・・佐伯和也・・・?」
 ボクがそう呟いた瞬間、男が起き上がった。そしてこちらをじっと凝視している。




「呼んだ?」



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