『前編』


 気がつくと、絵を描いていた。
幼い頃から、何か嫌なことがある度に筆を手にしていた。そしてその嫌なことを忘れようと、筆を走らせる。最初はその嫌なことから逃げていたのだが、絵が進んでくると、それすらどうでもよくなってくる。それどころか、途中で楽しい気持ちすら湧き上がってくるのだ。気がつくと、その絵の魅力にとり付かれていた。小学の頃から使っていた絵画道具も、大学に通う頃には使いすぎてボロボロになっていた。


「センパイ!」
「うわぁ!」

 大きな声で呼ばれ、ボクは慌てて起き上がった。そしてまだ眠気の残った目蓋で周りを見渡した。一番最初に眼に入ったのは、正面で両腕を組んで立っている女子だった。彼女は口を尖らせ、じっとこちらを見下ろしている。彼女の後ろで作業を続けている他の人たちは、クスクスと笑いを噛み殺しているのが見て取れた。ボクはゆっくりと顔を上げて、目の前に立っている女子に声をかけた。


「・・・あ、中山。お早う」

 ペコリを頭を下げるボクに、中山はプルプルと震えて笑っている。しかしボクはそれにも気付かず、大きな欠伸をして頭を掻いていた。

「ね、センパイ。少しお聞きしてもいいですか?」
「・・・ん、どうぞ」
「ここはどこですか?」
「ここは・・・美術室です」
「それじゃ、今は何の時間ですか?」
「サークルの活動時間・・・かな?」
「かな? ・・・じゃありません! 活動時間なんですよ!」
 中山は大声を張り上げた。「それなのに、センパイは何ですか! 皆が一生懸命作品を仕上げようとしているのに、こんなに椅子をたくさん並べてその上に横になって! センパイはここに寝に来たんですか!!」
「いや、寝るつもりはなかったんだよ。ただ構想が決まらなくて考え込んでたら、ついウトウトと・・・」
「ウトウトと?」
「眠りに落ちました」
「センパイ!」
 中山のあまりに大きな声に、ボクは慌てて両手で耳を塞いだ。そんなボクを見て、中山は溜息をついた。「こんな不真面目な人が部長だなんて、信じられない・・・」

 中山の言うとおり、ボクこと『佐伯 和也』はこの美術サークルの部長に就任している。本来ならば部員を引っ張っていかなければいけない立場なのだが、自分はそんな人の上に立つような人間ではない。やろうと思えばできないこともないかもしれないが、正直面倒くさい。

「仕方ないよ。ボクはあみだクジで決まった名ばかりの部長だから。だから中山も諦めて、ボクのことは気にせずに作業を続けてください」
「はぁ・・・センパイって本当に私の夢をぶち壊してくれるわ・・・」

 中山は更に溜息をつく。そんな中山の姿を見て、半年前の新入部員が入ってきた時のことを思い出した。新入部員の中で一番瞳を輝かせていたのも、この中山だった。彼女は部長と紹介されたボクに、ペコリと頭を下げて自己紹介をした。
「私、コンクールで何度も佐伯センパイの入賞した絵を観させていただきました。私は佐伯センパイのファンなんです! これから色んなことを教えてください!」
 それが中山の言葉だった。確かにボクは小さい頃から、他の友達がサッカーやゲームで遊んでいる時にも絵を描き続けていた。暇があれば絵を描いていた。そうして長い年月で得た技術も手伝ってか、高校の美術部の顧問に勧められて提出した絵が金賞を受賞したこともあった。この大学に入ってからも、入賞した記録をもっている。だけども、自分はそんな四六時中絵を描く人間ではない。描きたいモノがあれば描くし、気がのらなければ他のやりたいことをするのだ。中山の期待を裏切るようだが、それが自分なのだから仕方ない。

「・・・中山も半年前までは大人しくて可愛かったんだけどなぁ・・・」
「そりゃ、一応憧れの人でしたからね。でも失敗だわ〜・・・。まさかあんな良い絵を描く人がこんなだらしない人だったなんて・・・」
「あ、きっとだらしないからああいう絵が描けるんじゃないかな」
「そんな訳ないでしょう! とにかく、センパイも今週中に絵を1枚だけでもいいんで完成させてくださいよ!」
「う〜ん・・・中山は怒ってばっかだな」
「ダ・レ・ガ!! 怒らせてると思ってるんですか!」
「・・・もしかしてボク?」
「決まってるじゃないですか!」
「・・・はぁ、それはお疲れ様です」

 ボクの笑顔で返すその言葉で、中山は両手で顔を覆ってしまった。もしかして泣かせてしまったかと思って心配になったが、心配なのはこの後のボクの状態だった・・・。









「・・・痛い」

 ヒリヒリする顔を左手で押さえボクはそう呟いた。あの直後、中山の顔を覆っていた手が離れた瞬間、そこには鬼がいた。物凄い可愛い笑顔を浮かべながらも、その奥にある殺気は見事なものだった。その殺気に気付き、身の危険を感じて逃走を図ろうと動いたと同時に、中山の正拳突を顔面に叩き込まれてしまった。そしてボクは初めて無重力空間を味わった。自らの身体が宙を舞い、天地が引っくり返った世界を垣間見た。
 痛がるボクに、後ろでハンマーを持っている中山はこれ以上ない程の笑顔を向けている。

「自業自得です」
「中山、そのハンマーは何に使うんだ? 美術部には不似合いな道具だぞ」
「いえ、今度センパイが逃げようとした時のための保険です。今度逃げたらこれで止めさせて頂きます」
「・・・それ、殺人未遂じゃないか? 逃走が止まる前にボクの人生が止まってしまうよ」

 そして逃走云々の前に、今の状況では動くことも出来そうにない。中山に殴られてから意識を取り戻すと、自分の身体はロープで椅子に括り付けられ、右手は筆を握られたままテープで固定されていた。一応逃走を試みようと思ったが、その場からピクリとも動けなかった。周りの部員たちに助けを求めようとしたが、全部員が中山の味方をしているらしい。部員たちは机や椅子でバリケードを作り、部屋の扉に鍵をかける等、ボクの逃走経路を完全に遮断していた。

「・・・少しくらい手加減してくれてもいいんじゃないかな?」
「センパイが最初から真剣に作業に取り組んでくれていたら、こんな面倒なことしなくてもいいんですよ」
「いや、だって今は絵を描く気分じゃ・・・」

 ボクがそう言いかけると、中山の手の中にあるハンマーがそっと頬に触れた。そのひんやりとした感触に寒気を覚え、口を噤んだ。

「・・・センパイ。今何か言いましたか?」
「・・・いえ、何も」
「それじゃ、作品に取り掛かってもらえますよね?」
「・・・喜んで」

 明らかに脅迫だが、今の状況でとる手段は他にないようだ。周りは敵だらけで、ボクは身動きもできない。ロープで縛られ、逃走経路を塞がれ、背後には凶器を持った女子が立っている。それは到底美術サークルの活動に似つかわしくない光景だが、我が部ではこれが日常茶飯事になりつつあった。まぁ、それだけボクが部員を困らせているということなのだろうが、ここは敢えて学習しない。

 ボクは目の前に置かれたキャンバスに筆をつけ、そっと走らせた。

『やりすぎ』

 キャンバスにそう書くと、中山が笑顔で顔を近づけてきた。

「センパイ、変わった絵を描こうとしてるんですね。何を描こうとしてるんですか?」
「ん・・・これはボクの心中を表した抽象画だね」
「へー・・・流石センパイですね。それで、ここからどういう風に進めていくんですか?」
「そうだなぁ・・・これでどうだろう」

 ボクはそう言って、キャンバスに『暴力反対』と書いた。それを書き終えて恐る恐る中山の顔を窺うおうとすると、彼女の顔はボクの顔の10センチほどのところに置かれ、あまりの近さにボクは驚いて背筋を伸ばした。中山の表情は相変わらず笑顔だが、自分の脳裏は警笛を鳴らしている。


 ・・・そして、二度目の正拳突を頂いた。







 サークルの活動時間も終わり、部員たちは今日も恒例の光景を拝んでそれぞれ帰宅していった。
部員たちが帰ったことを知ったのは、ボクが二度目の気絶から覚めた時だった。既に西の空は茜色に染まっており、反対方向の東の空からは夜が近づいてきていた。

「痛た・・・」

 起き上がろうとすると、眉間に痛みが走った。しかしこの痛みにも段々と慣れてきてしまっている。何しろ、ここのところ毎日中山に殴られているからだ。『鉄は叩けば強くなる』と云うが、人のタフネスも同じようなものなのかもしれない。まぁ・・・1度目は毒のように時間が経っても疼いていたが・・・。


「目、覚めました?」


 声のした方に目を向けると、そこには通称『凶暴女・中山』がキャンバスの前で筆を走らせていた。キャンバスに視線を移すと、まだ途中段階だが人物画であることが分かった。中山は中学高校と美術部だったと言っていたが、その経歴に相応しい技術が込められた絵だった。他の新入部員には悪いが、今年の優秀株は中山で決まりだろう。それだけ、レベルの高い絵だったのだ。

「うん、ようやく目が覚めたよ。中山のおかげでよく寝れた」
「それは良かったですね。何なら、もう少し寝かせてあげましょうか?」
「・・・・・・いや、もうバッチリ目が覚めました」

 流石に1日に3度も殴られるのは勘弁だ。ただでさえまだダメージが残っているというのに、これ以上正拳突を叩き込まれては、ボクでも復活できない。

「・・・それより、中山って結構いい絵を描くんだな。でも惜しい点があるよ」
「え・・・?」

 ボクの言葉に、今までキャンバスに向き合ったままだった中山が振り向いた。その中山の姿を見て、ボクは頭を掻いた。確かに中山の描く絵はレベルが高いと思う。だけど、ボクからしてみれば何かが物足りないのだ。それは想像力や技術の類ではない。ただ、直感で感じたことだった。

「確かに中山の絵は・・・まだ途中だから早計かもしれないけど、気持ちが入ってないような気がするんだ。いや、気持ちは入ってるけど、何かに迷ってるように見える。技術や構想はいいと思うよ。でもその迷いのような感情が、この絵の良いところを隠してしまっているように見えるんだ」
「・・・迷い・・・」

 中山はその言葉を反芻して俯いた。絵は気持ちを映し出す鏡というが、ボクの言った通り何か思い当たる点でもあるのかもしれない。しかしそこまでプライバシーに追求するつもりはない。ボクは再び頭を掻いて立ち上がった。

「・・・ま、そう感じただけだから気にしないでよ。それより、もうそろそろ帰った方がいいだろうね」

 ボクがそう言ってカバンを持って帰ろうとすると、中山が勢い良く顔を上げた。

「センパイ」
「ん?」
「・・・どうすればいいですか?」

 中山はいつになく真剣な表情だ。絵に対してそれだけ真摯に取り組んでもらえる姿勢は嬉しく思える。その姿勢はいい加減なボクにはないものだ。そう思うと、自然と笑みが零れた。

「そうだね・・・。もし本当に迷っていることがあるなら、解決することだね。悩みを抱えたまま筆を進めても、良い絵はできないよ」
「迷いを・・・解決する・・・」

 中山はボクの眼を見ながらそう呟いた。あまりそう見つめられると恥ずかしいが、ボクには分かる。彼女はボクを見ているのではない。ボクを通して、自分の迷いの元凶を見据えているのだろう。尤も、悩みの種がボクであったとしたら解決方法はないだろうが、中山の様子を見ると少なくともボクが原因ではなさそうだ。

 中山は「今日初めてセンパイが部長に見えました」と笑うと、キャンバスに布を被せて絵画道具を片付けた。そしてカバンを手にして部室の扉の前まで行くと、クルリとこちらを振り向いた。



「少し、考えてみます」

 中山はそう言って帰っていった。



『前編』 完
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