『前哨戦』


 ついにこの日がやってきた!
七海はいつもなら母親が10分近くかけて起こすのに対し、今日だけは自ら起床した。まだ朝の5時と時間にも余裕がある。七海はすぐに部屋を出て、お弁当を完成させるために母親を起こしてキッチンへ立った。
「・・・今日はすごい早起きね。いつもなら8時になっても起きてこないのに・・・」
 母はそう眠そうな目蓋を擦ってぼやいている。「いつもこうやって起きてくれれば、お母さんも楽なんだけどな」
「お母さん、この玉子焼き、もう型外してもいいの?」
 母のそんな言葉を聞きもせず、七海は昨夜仕込んでおいた玉子焼きを冷蔵庫から取り出して聞いた。七海が取り出した玉子焼きは簀巻で巻かれ、それはハートの形を象っている。母の了解を得て七海が簀巻を外すと、玉子焼きも見事にハート型を保っていた。
「こうして温かいうちに形を作っておくとね、冷めたらその形になるの。今回はハート型だけど、星型や花型とか、色んな形ができるのよ」
 母の玉子焼き講座を聞きながら、七海は母に言われて包丁を手にした。そしてその玉子焼きを、慎重に1口サイズにスライスしていく。その手つきは妙に危なっかしいが、何とか無事に切り終えることができた。玉子焼きの内部には、中心部に蒲鉾が詰められ、更にそれを囲うように海苔が覆っている。黄色いハートの中に白いハートが、その景観を惹き立たせていた。それもこれも母のアドバイスがあればこそだが、予想以上の出来に七海は蒼太の喜ぶ姿を想像して笑みを洩らしている。
「ナナ、それじゃあ次はラップサンドを作りましょうか?」
 母はそう言って冷蔵庫から昨日のうちに準備しておいた耳を外した食パンを取り出した。七海は昨日のうちに母から教えられていた知識を思い出し、パンにバターを塗り始めた。ラップサンドとは一種のサンドウィッチだが、見た目が可愛く出来上がる。一般のサンドウィッチのように三角ではなく、細長い丸型だ。そしてその中にマヨネーズ・塩・胡椒・マスタードを塗って、卵やほうれん草を加えるの。そして最後にそれをラップで包み、両端をリボンで止める。これでラップサンドの完成だ。
「うん、やっぱりお母さんのサンドウィッチは可愛いね」
「あら、ありがとう。それじゃナナも今度から早起きしてこれを朝作っておいてもらえるかしら?」
「私はお兄ちゃん以外には作らないもん」
 七海のその言葉に、母は苦笑してラップサンドをお弁当箱に詰めた。後は昨夜のうちに準備しておいた料理を詰めていくと、お弁当の完成だ。
「あ、そうだナナ。お母さんが作ったマンゴーゼリー、食後のおやつに持って行きなさい」
 母はそう言って冷蔵庫からゼリーを取り出し、小さなアイスボックスに入れた。「さ、これで準備できたわね。これだけ豪華に用意したんだから、蒼太クンの心を奪ってきちゃいなさい!」
「うん、私頑張る!」
 七海は力強く肯き、お弁当をカバンに詰めて学校へ向かっていった。


 七海が通学路を歩いていると、前方80メートル程離れた場所を歩く明日香を発見した。七海はすぐに彼女に駆け寄ろうとしたが、隣にいる人物に気付いて足を止めた。
「あれ・・・遥斗クン?」
 七海は目を細めて明日香の隣を歩く男子生徒を凝視した。しかしやっぱりどう見ても水橋遥斗だ。2人仲良く・・・とまではいかないが、一緒に登校している姿を見て、七海は自分のことのように嬉しくなった。
 明日香は照れくさいのか、遥斗に視線を向けないようにしている。でも時折、チラリと彼の方を振り向く彼女の姿を見て、初々しく感じていた。遥斗も明日香と同様に、明日香を意識しすぎて不自然に視線を落としている。どちらも似たもの同士のようだ。
「どんな会話してるのかな?」
 七海は2人の会話が気になり、前を行く2人に気付かれないように近寄った。一般生徒や電柱の影に身を潜め、遂に会話が聞き取れる場所まで移動できた。
「あ・・・えっと・・・そういえばナナ、昨日お弁当を作る材料だけで3000円も使ってたのよ」
 不意に自分の名前を呼ばれ、気付かれたかと七海は身体を硬直させた。「全く・・・本当呆れるわよね」
「3000円・・・その・・・すごいですね。ボクなんて、親が仕事で忙しくて簡単におにぎりで済ませてしまうんです。羨ましいです・・・」
「え・・・遥斗クンは今日のお昼おにぎりだけなの?」
「え・・・あ、ハイ・・・」
「そ・・・そうなんだ。あの・・・それじゃそのあの・・・私のお弁当を・・・その・・・」
 明日香はゆっくりと上を見上げ、その先の言葉に詰まってしまっている。「一緒に食べよう」という言葉が彼女の口から出てくるのか分からないが、七海はそれを期待して耳を傾けた。すると、誰かの手が自分の肩に触れた。
「岩戸、お前何してるんだ?」
「ひゃぁちゃ!」
「うぉ!?」
 奇声を発する七海に、声をかけてきた守は驚いて尻もちをついた。驚いたのは守だけではない。同じ通学路を通る他の生徒も、前方の明日香や遥斗も身体をビクつかせて奇声の主である七海の方を凝視していた。
「な・・・な・・・ビックリさせるんじゃねぇ!」
 守は皆の視線を一身に受けながら、顔を赤らめて立ち上がった。
「ビックリしたのはこっちだよ! せっかく聞き耳たててたのに、明日香ちゃんたちに気付かれちゃったじゃん!」
 七海も負けじと言い返す。もはや周りの注目などお構いなしだった。
「あ? 聞き耳?」
「そうだよ! 折角明日香ちゃんが遥斗クンといい雰囲気でお話してたのに!」
 その直後、七海は顔を真っ赤にした明日香に口を塞がれた。「・・・あ、明日香ちゃん」
 明日香は顔を真っ赤にし、もはや涙目である。
「あ・・・あんた、声が大きい! 何考えてるのよ!」
「だって守が邪魔したんだもん。折角明日香ちゃんが遥斗クンと、お昼のお弁当を一緒に食べる方向になるかもしれないってとこだったのに」
「あ・・・だからこんな場所でそんなことを・・・」
 明日香は慌てて周りを見渡した。案の定、周りを行く人々は口を押さえながらクスクスと笑いを噛み殺しながら彼女らを通り過ぎていっていた。それを感じ、明日香は更に恥ずかしくなった。周りの通行人どころか、前方にいる遥斗さえも顔を赤くしている。それを見て、守はバツが悪そうに頭を掻いた。
「あの・・・林、何て言っていいか分からんけど・・・その・・・ドンマイ」
「明日香ちゃん、ドンマイ!」
「ドンマイじゃないわよ、このバカ2人!」
 明日香はそう叫び残して、物凄い速さで学校へと走り去っていった。それを見て、遥斗も慌てて後を追った。その場に残された七海と守は、しばらく沈黙して顔を見合わせた。
「・・・守、やっぱりバカだったんだね」
「バカはお前だけだ」


 七海と守は一緒に教室へ入ると、そこには机に顔を伏せている明日香の姿があった。無理もないかもしれない。あれだけ公の場で暴露されたのだ。ショックを隠しきれなくても仕方ない。そのショックの原因でもある七海と守は顔を見合わせて眼で合図を送り合っている。
(岩戸、あれはお前のせいだから、しっかり謝れ)
(元はといえば守が悪いんだよ。守が手を肩に置いてこなかったらこんなことになってなかったんだもん)
(だからってあの場で暴露したのはお前だろ! 大体、『聞き耳たててたのに』なんて大声で普通言うか?)
(あ、そうか。これで明日香ちゃんと遥斗クンは皆の公認の仲になったんだね。何だ、良かった)
(良くねぇよ。勝手に良かったことにするな)
 2人がそんなやり取りをしていると、明日香がこちらをジロリと睨んでいることに気がついた。守はそれに気付き、罰が悪そうに頭を掻きながら明日香の席に近寄った。
「・・・あの・・・林・・・」
「・・・何?」
「何ていうか・・・その・・・悪かったな。オレのせいとは言わんが、単純な岩戸のせいであんなことになっちまって・・・」
「ちょっと、何で私のせいになるの!」
 七海は不満があるらしく、2人の間に割ってきた。「あれは守のせいなんだよ」
「分かった分かった。もうオレのせいでもいいから、お前は黙ってろ」
「もう・・・いいわよ」
 明日香が顔を上げ、溜息をついてそう呟いた。「まぁ、ナナのすることだから半分諦めてるわよ。・・・その代わり、もうその話は忘れて頂戴」
 明日香はそう言って苦笑した。長いこと七海と一緒にいたせいで、余計な免疫ができているらしい。七海と一緒にいるということが良いかどうかは別にして、おかげですぐに諦めることができているようだ。
 取り合えず明日香の言ったとおり、例の事件の話題はそこで幕を下ろし、体育大会の準備にとりかかった。3人はすぐにグランドに出て、全校生徒に混じりながら自分たちのチームの場所に腰を下ろした。この学校は全校で3チームに分けられ、それぞれ『赤』『青』『黄』チームとなっている。七海たちのクラスは『赤』チームに組み込まれていた。七海たちがその場所へ着いた時には、既に下級生も含めて数人が座っていた。七海は周りを見渡し、明日香に声をかけた。
「あれ? 遥斗クンは赤じゃないのかな?」
「ああ・・・遥斗クンは青みたいよ」
「あ、そうなんだ。敵味方に分かれちゃったんだ。明日香ちゃんもつらいね」
 七海は明日香の肩に手を置いて首を振った。彼女がどういう思考を巡らせているのかは不明だが、頭の中が恋愛色であることは間違いないだろう。嬉しそうにこちらに微笑んでいる七海を見て、明日香は頭を抱えた。
「・・・あ、ナナ。幸ちゃんも来たみたいよ」
 明日香は七海の笑顔をスルーし、校舎から走ってくる幸を見つけて彼女を指差した。七海もそれに気付き、そちらに視線を移すと、クエスチョンマークを頭の上に浮かべながら首を傾げた。
「皆、お早うさん!」
 七海たちの前に到着し、幸は息を切らしながら笑顔で挨拶した。明日香と守は少し疲れた顔を浮かべながら「お早う」と返した。しかし七海だけが挨拶を返さず、首を傾げている。七海のその態度に気付いたのか、明日香が七海に声をかけた。
「ナナ、どうかした?」
「え・・・ん・・・ちょっとね。何か幸ちゃん、お兄ちゃんの匂いがする」
「は・・・匂い?」
 明日香は口をポカンと開け、七海が言った言葉を反芻した。聞き違いかと思ったが、残念ながら間違いではないらしい。明日香の後ろで守が「お前は犬か」と笑った。それにつられ、幸すらも笑っていた。
「ナナ、すごいな。何で分かるん?」
「え、それってやっぱりお兄ちゃんの匂いなの? 何で幸ちゃんからお兄ちゃんの匂いがするの?」
 慌てて問い詰める七海を止めるように、明日香が七海を抑えた。
「ちょ・・・落ち着きなさい!」
 何とか七海を幸から離し、明日香は頭を掻いた。どこから話を進めていけばいいものか、整理ができない。まず、『蒼太の匂い』というものすら理解できていない。
「・・・ナナ、本当に幸ちゃんからセンパイの匂いがしてるの?」
「うん、間違いないよ! 私がお兄ちゃんの匂い忘れる訳ないもん」
 七海はやけに自信満々に答えている。本来、匂いというものは鼻腔内に存在する嗅細胞というもので匂いを判断するらしい。しかしそれでも人の匂いというものを嗅ぎ取ることなど、人程度の嗅覚では非常に困難なはずなのだ。人の嗅細胞は約4000万個あるとされているが、匂いに敏感な犬の嗅細胞約10億には及ばないものの、プラスα(蒼太限定)程進化しているのかもしれない。進化の方向が不気味だが、七海なら有り得てしまうのかもしれないと明日香は力なく笑っている。

「・・・ね、幸ちゃん。お兄ちゃんと一緒にいたの?」

 その場で第3者としていた守は、場の空気が不穏に変化しつつあることに気付いて、喉を鳴らした。体育大会の競技が始まる前に、女同士の戦いが始まりそうな雰囲気だ。余計な厄介ごとに巻き込まれたくない守は、その場をゆっくりと離れいった。


『前哨戦』 完

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