『前を向いて』


 ・・・誰だって落ち込むときがある。
慣れ親しんだ土地や友人たちと離れることになってしまった時。
テストで悲惨な点数を取ってしまった時。
可愛がっていたペットが死んでしまった時。
怒られた時、そして苛められた時・・・・・・。

 どんな理由であれ、誰でも深い悲しみの感情を抱く。自分も例に洩れることなく悲しみに暮れていた。
「別れよう」
 その一言が、自分の気力を全て奪い去っていった。その別れから、世界が一変したようにも感じた。あれ程心地よかったあの子の姿が、声が、笑顔が、まるで対極のように自分を苦しみに追いやってゆく。あの子と一緒にいたのは1年も満たない。しかし想い出はそれ以上に心に刻まれている。刻まれたその想い出が、まるで消えてくれない・・・。

 目蓋を閉じると、すぐに浮かんでくる君の笑顔。そしてそれに呼応するように微笑む自分。しかしもう笑顔を向けることはできない。君と離れて、自分がこれほど弱い人間なのだと初めて知った。別れただけで、夢の世界でも苦しみ、眼が覚めると涙を流していることもあった。


「忘れよう」


 忘れなければ、自分はここから動けないと感じた。そう考えて、あの子と撮った写真を全部燃やした。燃やして・・・燃やして・・・それは風に飛ばされて手元から離れていった。だけど・・・写真はなくなっても悲しみがなくなることはなかった。想い出を忘れる前に、何度もあの子を見かけてしまう。あの子の声を聴いてしまう。それだけで何度も再発し、その想い出の瞬間がフラッシュバックされてしまう。


 友人たちは「女の子は他にもいるよ」と慰めの言葉をかけてくれる。自分を心配し、悲しみを忘れさせようと遊びに連れ出してくれる友人たち。しかしそんな優しい友人たちに「もう気にしてないよ」と強がって見せる自分が虚しかった。



 何かの本で、失恋に関した文章を読んだことがある。
「忘れるんじゃない。それを良い想い出として受け止め、前を向く」
 短い一文だが、妙に心に残っている。当時はそれが普通だと感じていた。その聞こえがよい言葉を読み、納得していた。しかし実際その立場になってみると、それを正面から受け止めることは非常に困難だ。それが一番よい方法だと分かっていても、そう簡単に前を向くことなどできない。





「もうどうでもいい」


 そんな格好悪い言葉さえ口から飛び出した。それは前を向くことも諦め、その場で立ち尽くすことを意味する言葉だと自分でも分かった。しかしそれでももう構わないと思った。人と近づいて傷つくのなら、最初から壁を作っておいた方がよっぽど楽だ。そんなことさえ考えて、道を歩いていた。





 そんな時、森林の近くで泣いている小さな女の子に気がついた。周りには誰もおらず、その泣いている女の子を認識しているのは自分だけしかいない。その泣いている女の子に、自分はすぐに駆け寄った。

 近づいて分かったが、膝を擦りむいている。恐らく転んでしまったのだろう。
その程度なら心配はいらないが、その子は血が出ていることに怯えてしまっている。それを見て自分はすぐに近くにあった公園へ走り、そこの水道でハンカチを濡らした。そして再び女の子の元に戻り、濡らしたハンカチを差し出した。

「沁みるかもしれないけど、これで傷拭きな」

 そう言う自分に、女の子はくしゃくしゃになった顔を向けた。女の子は戸惑いながらもそれを受け取り、膝につけた。水が沁みるのか、目蓋を強く閉じている。しかし次第にその痛みにも慣れてきたのか、頬を流れていた涙も心なしか落ち着いてきていた。それを感じ取り、自分は安堵の溜息を洩らした。


「・・・もう、大丈夫か?」
「・・・うん」


 女の子は俯いてそう呟いた。見知らぬ男が気になるのか、親や園で「知らない人に声をかけられたら、すぐに離れなさい」とでも教えられているのか、こちらにチラチラと視線を向けてくる。それを見て、あまり不審者扱いされても困るので自分は溜息をついて下ろしていた腰を上げた。


「それじゃ」



 座り込んでいる女の子を背に、自分はゆっくりと歩き出した。しかし数歩進んだところで、女の子が立ち上がったのを気配で察した。その気配に気付いて振り向くと、女の子はこちらに顔を向けて笑っていた。



「・・・ありがとう!」


 女の子に礼を述べられ、無意識に自分は笑っていた。それは友人たちの前でとっていた虚勢の笑顔ではない。心からの笑顔であることにすぐに気付いた。女の子の笑顔を見て、自分が悩んでいたことさえも忘れていた。そのことに自分自身驚いていた。約一ヶ月、二ヶ月と全く薄れることのなかった虚無感が、こうしたほんの僅かな時間で癒されていったのを感じた。



 自分は女の子に軽く手を振り、再び背を向けて歩き出した。
今自分が感じたモノ。それが何かは分からない。しかし今の自分は数分前の自分の心情と異なっていることだけは間違いない。あれほどまでに暗く映っていた周りの風景が、やけに眩しく見えている。


 少しして後ろを振り向くと、そこにはもう誰もいなかった。
この道から女の子がいた場所は、ほぼ一本道。姿を見失うことは有り得ない。不意にポケットに手を入れると、不可解なモノが入っていることに気付いた。ゆっくりとそれを取り出すと、それは先ほど女の子に渡したハンカチだった。


 濡らしたはずのハンカチが、しっかりと乾いている。
 渡したはずのハンカチが、いつの間にかポケットに入っている。
 いつの間にか、女の子が消えている。

 そんな不思議な現象を体験し、自分は心の底から笑ってしまった。
歩きながら夢でも見てしまったのか、それともとうとう頭がおかしくなってしまったのか。
先ほどの女の子の存在が夢、幻、幽霊でも、そんなのは問題じゃない。あれを見て、自分の苦しみが和らいだのは事実なのだ。幽霊でも何でも、感謝したい。



 ふと空を見上げると、青い空が広がっていた。白い雲が様々な形を成し、その大空を鳥たちが自由に飛び交っている。世界はこんなにも眩しい。こんなにも広い。そんな子どもでも分かるようなことに、自分はこの歳になって初めて実感した。この空を見ていると、自然と笑みがこぼれてしまう。

 ・・・まだ悲しみ全てを忘れることも、受け止めることもしばらくはできそうにないが、この広く眩しい景色を見ていると、いつかは前を向いて歩き出すことができるような、そんな予感がした・・・。



『前を向いて』

 

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